2007年11月30日金曜日

朝青龍 と 福沢諭吉(2)

2007年12月.「日本の国技・相撲」の横綱二人は、外国人です.

これは、「明治維新」と「戦後」の2つの時代を経て「島国」から「国際化」への道を進んだ日本が、さらに「島国性の脱却」から「独立国としての国際化」への段階に入りつつあるという意味で、よいことです.

明治維新、日本は「開国」により「国際化」の一段階を進みました.
その国際化は、「国権の皇張」「国権の振起」「国権の維持」(いずれも福沢諭吉「時事小言」全集第5巻)として侵略戦争につながり、戦後は「憲法の軽視・無視」から「侵略戦争の無反省」および「米国のポチ」へ、さらには「憲法改正のうごき」と「財政・年金の破綻」の現在につづき、第2の段階の終わりに近づいています.

明治維新、諭吉は「『内安外競』、わがはい(自分のこと)の主義、ただこの4文字にあるのみ」といいました.(1871年「時事小言」全集第5巻)

「内安」とは、「天皇」(注1)と「宗教(ヤスクニ神社)」(注2)を利用して、ダマシで国内を「安定させること」です.「外競」とは、「戦力を蓄え、『大砲にモノを言わすこと』」(注3)です.

(注1)天皇について、諭吉は「愚民を篭絡(ろうらく.だますこと)するの一欺術(ダマシの手段)」(1889年「帝室論」全集第5巻)といっている.

(注2)「東京招魂社」が「ヤスクニ神社」と改称したころ(1879年)、諭吉は「バカとカタワと宗教、ちょうどよき取り合わせ」(1881年「宗教の説」全集第20巻)といっている.

(注3)「万国公法(国際ルール)は、数門の大砲にしかず」(「時事小言」)

諭吉の願望は実現し、国民はだまされて日清・日露戦争へと突入させられました.
夏目漱石は、日露戦争を冷ややかな目でみていますが、司馬遼太郎は、日露戦争で大もうけをしました.

諭吉は、日清・日露戦争で自分の新聞「時事新報」の発行部数をのばし、「お金」をもうけました.「マッチで放火し、火事でもうける」方式を大々的に実行したのです.

「日本一の金持ちとなること」が諭吉の「15,6歳のころ」の「希望」でした(「福翁自伝」)が、これを実現したのです.これらの戦争は、やがて対中侵略戦争から太平洋戦争へと進みます.

戦後、アジアで2000万人、全世界で数千万人の犠牲を出した戦争の反省として「戦争をしない」「戦力をもたない」憲法がつくられました.しかし、米国の要求により、憲法の軽視・無視が継続され、2007年の現状として、年金/財政の破綻・社会福祉の切り下げ・増税へとつながっています.

この現状を覆い隠すために、諭吉は「偉人」として「10000円札の肖像」になり、「お金の神様」「国民と政府の『師匠』」として、あがめられています.

諭吉は、「お金をもうけること」が希望でしたから、国民をだましてでも、戦争を利用してででも、十分満足していることでしょう.しかし、「国技・相撲」の「横綱二人が外国人である」ことにも例があるように、「開国し、虚勢をはった島国」「アメリカのポチとしての島国」から「国際社会の中での『調和した島国』」への日本の変身は始まりかけています.

諭吉とカナダの「慰安婦」決議

「日本政府は真摯な謝罪を」カナダの下院が全会一致で決議しました.(2007年11月28日)

アジア太平洋戦争時に、旧日本軍が侵略先の女性たちを性奴隷にした日本軍「慰安婦」問題で、日本政府に真摯(しんし)な謝罪を求める、米(7月)、オランダ(今月)に続く決議です。旧政府の犯罪を現政府が否定して、忘れたふりをする.それは通用しないことを国際社会が示したのです.

戦後50年以上たった現在でも、日本では過去の侵略戦争の責任を隠す動きがつづいています.
「沖縄住民に対する集団自決の強制」や「従軍慰安婦」の記述を歴史から消したいという希望は、反省のあらわれでしょうか? 「はずかしい」という認識がある証拠なのでしょうか?

「自分は、国民と日本政府の影の師匠だ」と自認した諭吉(注)は、この現象をどう理解するでしょうか? 

(注)「福沢諭吉全集発刊によせて」で、小泉信三は「諭吉は、日本人が諭吉の著書を読んで『新知識を得た』し、また、自分が『暗に政府のお師匠(ししょう)さまたりしことは古老(ころう.老人である自分)の今に忘れざるところなり』と放言したことがある」とのべています.

この師匠は、「遠慮(えんりょ)なくアジアを押領(おうりょう)して、わが手をもって新築するも可なり」とのべています.(「時事小言」福沢諭吉全集第5巻)

沖縄住民に対する「集団自決」の強制、「慰安婦」という「人身売買と性的奴隷化」を生み出した日本に責任のある過去の戦争は、「遠慮なくアジアを押領する」教えにもとづいていました.「天皇」や「宗教(ヤスクニ神社)」を利用し、国民をだます「教え」だったのです.(注)

(注)諭吉は、次のようにのべています.

「国のためには、財を失うのみならず、一命(いちめい.いのち)をもなげうちて惜しむにたら」ない(1872年「学問のすすめ」第3編 全集第3巻)

「馬鹿(バカ)と片輪(カタワ)に宗教、丁度よき取り合わせ」(1881年「宗教の説」全集第20巻)

天皇は、「愚民を篭絡(ろうらく)するの一欺術」(1889年「帝室論」全集第5巻)



この「師匠」の「教え」は、「反省」を求めてはいません.
「反省の欠如」─ これは、「師匠の教え」を「十分に理解していない」ためでしょうか?
それとも、「教え」自体が「お金が一番」の考えにもとづいているからなのでしょうか?

ちなみに、諭吉は、「15,6歳のころ」「日本一の金持ちになりたい」(「福翁自伝」)といっていました.諭吉は、自分が発行した新聞「時事新報」で、戦争を「すすめ」、戦争報道で発行部数をのばし、それで「お金」をもうけたのです.

その結果、「お金の神様」として10000円札の肖像とされ、「戦争犯罪無反省」の宣伝として利用され、その結果が与党・野党第一党の「憲法の軽視・無視」となり、「年金・財政の破綻」「憲法9条改正」から「米国の戦争政策への協力」「戦争をする国」、それによって、利権者と与党・野党の一部が「お金をもうける」もととなっているのです.

2007年11月29日木曜日

「民主主義を望む者には、狂者が多く、愚者も多い」(諭吉)

自由民権運動(注)のさなか、諭吉はこういったのです.

「世の国会開設を願望するものを見るに、非常なる狂者も多く、愚者も多い」(1881年「時事小言」福沢諭吉全集第五巻)

(注) 自由民権運動:1874年以降、藩閥政府による政治に対して、議会の開設、地租の軽減、不平等条約の改正、言論と集会の自由の保障などの要求を掲げた.1890年の帝国議会開設頃まで続く.(Wikipedia)

こうもいっています.

日本は、「もっぱら、武備を盛んにして国権を皇張(こうちょう)するの一点にあり」
「遠慮なくアジアを押領(おうりょう)して我が手をもって新築するも可なり」(いずれも「時事小言」)

「民主主義は No.武力侵略は OK」ということです.

21世紀の現在、10000万円札の肖像として、毎日拝まれている諭吉は、「狂者や愚者も多い」と考えながら私たちをみているのでしょうか?

2007年11月28日水曜日

福沢諭吉 と 「自己中心のすすめ」

諭吉は、「馬鹿と片輪に宗教、丁度よき取り合わせ」といいました.

ヤスクニ神社ができたころです.(1881年「宗教の説」福沢諭吉全集第21巻)
「東京招魂社」がヤスクニ神社と改称されたのは、1879年でした.

諭吉は、「国のためには財を失うのみならず、命をなげうちて惜しむに足らず」といっていました(1873年「学問のすすめ」初編 全集第3巻)

「『国民は、国のために財産を差し出し、死んでもよい』と考えなさい.家族が戦争で死んでも、ヤスクニ神社があるから、幸せになります.あなた方は、それを信じればいいのです」ということでしょうか?

美空ひばりの「九段の母」は、上野駅から九段まで歩いてきて、ヤスクニ神社の大鳥居を見上げて泣きました.

「母は泣けます うれしさに・・・」

彼女は、心の中で本当にうれしかったのでしょうか? それとも、諭吉の教えを受けた作詞者・作曲者や、ひばりにそれを歌わせたまわりの人のために、表向き「うれしい」といっただけなのでしょうか? そうだとすれば、彼女は「バカ」だったのではなく、「バカ」のふりをした「リコウ」だったのです.そのリコウな人の心の中は悲しかったのです.それとも、諭吉のいうように、彼女は悲しみを感じない人間だったのでしょうか?

そして、諭吉を含めて権力を持つ側は、「その間、お金をもうけますよ」ということです.
諭吉は、自分を「国民と政府の影の先生」と考えていて、国の政策と国民の思想をもうけのために都合よく操作していたのです.(「福沢諭吉全集発刊によせて」と題する文章で、小泉信三は「諭吉は、日本人が諭吉の著書を読んで『新知識を得た』し、また、自分が『暗に政府のお師匠(ししょう)さまたりしことは古老(ころう.老人である自分)の今に忘れざるところなり』と放言したことがある」とのべています)

国民をバカにしてだまし、日清・日露戦争へと誘導し、自分は戦争のニュース報道で「時事新報」の発行部数をのばして、金もうけをしていたのです.(後の司馬遼太郎も、日露戦争では大もうけをしています)

これほど、自己中心的な生き方があるでしょうか?(あると思います.2007年の現在も、「国際貢献」の名目で、アメリカの戦争政策に協力し、軍事産業からの見返りで金をもうけ、さらに、9条を変えて、より金もうけのチャンスを大きくする.このような勢力が、まだ与党にも野党第一党にも、存在しています)

2007年11月22日木曜日

「福沢諭吉全集」 と 平山洋 (7)

韓国の盧大統領と日本の福田首相の会談について、asahi.com は以下のように伝えています.

盧大統領、最後まで歴史問題 福田首相へは期待感

2007年11月21日23時59分

 残り任期3カ月の盧武鉉(ノ・ムヒョン)・韓国大統領が、東南アジア諸国連合(ASEAN)会合で訪問したシンガポールで事実上最後の首脳外交に臨んだ。歴史問題で終始ぎくしゃくした日本の福田首相とも20日に初会談。未来志向を掲げたが、歴史にこだわる大統領の視線は変わらなかった。

 「懸案が争点にならないよう管理し、問題が起きたら広がらぬよう努力することが大事だ」。首脳会談で大統領は任期中の日韓関係を振り返り、歴史認識や教科書問題に触れた。だが、直言をぶつけ、険悪になった過去に比べて、ソフトな雰囲気。アジア重視を掲げる福田首相への期待感と、来月選ばれる次期大統領への配慮が働いた。

 だが歴史観は変わっておらず、21日出した任期中の首脳外交総括は「過去の歴史の克服は日本の正しい歴史認識が前提との信念で断固対処した」とした。

日本には、平山洋氏のように、創作の形ではあれ、諭吉を登場させて歴史の書き換えるなどの試みが絶えない中、韓国の大統領がねばり強く日本に正しく歴史と向き合うことを要求する姿は、外国人ではあっても、非常に好感が持てます.

しかし、そうはとらない日本人も多いかと思います.その人たちは北朝鮮による日本人拉致被害者たちのことをどう考えているのでしょうか?

日本が過去に同じような犯罪をおかし、それにほほかぶりをしながら、「あなた方のやっていることは主権の侵害だ.犯罪だ」などといって、だれが納得するでしょうか?

正しい解決は、「私たちは間違っていた.あなた方も間違っている.これからは、お互いに決して間違えを犯さないようにしよう」という以外に解決ができないことは明らかだと思います.

諭吉は、自分は「暗に政府のお師匠だっだ」と認めていますが(小泉信三)、台湾・朝鮮の植民地化から中国への侵略戦争に積極的に貢献し、出来事をニュースとして伝える中で「時事新報」の発行部数をのばし、お金をもうけました.この点で、諭吉が「間違いを犯しても、お金が大切」という見本を残したことは、正当に批判されるべきです.

同時にその諭吉を擁護する立場、しかもウソをついてまで擁護する立場も、しょせんは「お金のため」であり、非難されるべきです.

「福沢諭吉全集」 と 平山洋 (6)

「自国の歴史をいつわる」国は、国際社会での尊敬と理解をえることはできません.
日本は過去に、朝鮮李王朝の王妃閔妃(ミンピまたはビンピ)を惨殺し(19世紀後半)、朝鮮を植民地化しました.

労働力を補うために、多くの労働者を強制的に日本に移動させ、苛酷な労働をさせました.太平洋戦争では、女性を日本軍に付属する「女性奴隷」(従軍慰安婦)として強制的に拉致し、人間以下の扱いをしました.関東大震災では、市民が朝鮮人を探し出し、6000人とも言われる朝鮮人をなぐり殺しました.騒動をおこして社会主義者の弾圧に利用しようとした、政府側の陰謀だともいわれています.日本人との区別をするために、「君が代」を歌わせることもあったそうです.(その「君が代」を国歌とするとはどういう神経でしょうか?)

従軍慰安婦の問題では、米国(下院)やオランダ(下院)の国会に相当する機関で謝罪要求の決議がなされています.これに対する日本の態度は、教科書からその事実を削除し、国民の記憶から抹殺しようとする、ネットには「... 『日帝は国母のミンピを惨殺し、民衆の希望を奪った」www。これも笑える。当時は民衆に恨まれてたんだよ!? 』という書き込みがある、など自分で国際社会から尊敬を受けられないのが当然であるような行為をつづける、異常な状態がつづいています.

この態度のもとには、諭吉がいます.諭吉は「国民と政府の師匠」として、「内政に問題があれば、外に問題をおこし、注意をそらすこと」を提案し、朝鮮で農民運動が農民戦争へと進んだ1893年には「居留人民保護」のための出兵要請、事件を「王宮の城門破壊・武力占領・国王の軟禁・かいらい化」に発展させ、「人民の保護ではなく、文明進歩のため」に駐留を継続させるなど、日本の侵略戦争を推し進め、一方では、そのニュース報道で「時事新報」の発行部数をのばし、お金をもうけました.(藤村道生「日清戦争」、安川寿之輔「福沢諭吉のアジア認識」など)

この諭吉の活動を、「実は石河幹明のしわざ」というのは、「お話」としては面白いというようなことではなく、過去の日本の戦争を「自衛のための正しい戦争」と宣伝することにつながる、歴史の書き換えであり、「大ウソ」というより、国民と国際社会に対するサギ、あるいは強盗の居直りのようなものだというべきです.

「福沢諭吉全集」 と 平山洋 (5)

「福沢諭吉の真実」の著者平山洋は、以下の論旨を立てている.

① 諭吉批判者は、無署名論文を諭吉の思想として批判している.
② しかし、無署名論文の多くは、弟子の石河幹明が書いて、意図的に「全集」にまぎれこませた(と考える)ものなので、諭吉批判は成立しない.

これが、結果として「娯楽性の高いミステリー」となった「福沢諭吉の真実」の筋書きである.これは厳格な検討は話をかたくしすぎて、娯楽性をそこなうと考え、実体から離れた仮定を前提として話を進めたという作者のサービス精神によるものと考えられる.

以下がその例の一つである.

① 平山の話の前提は、諭吉執筆か石河執筆かの判定にあたり、両者の用語の違いを基準の一つとする.諭吉は「臣民」の用語を用いず、石河はそれを用いる.この基準で、諭吉の「尊王論」(88年10月刊)には、それ以前の(諭吉の)文章では使用が確認できない「臣民」が使われている.また、「天下万民」「日本人固有の性」という表現から、「尊王論」の真の起草者は石河幹明であることが判明した.(「福沢諭吉の真実」83ページ)

② しかし、諭吉は「尊王論」の刊行前の「徳教之説」(1883年)で、「臣民」「日本臣民」の表現を使い始め、以来10年余にわたり「臣民」の用語を使いつづけている.(安川寿之輔「福沢諭吉の戦争論と天皇制論」2006年 高文研刊 17ページ)

このように、「福沢諭吉の真実」の作者は、話を面白くするために事実とは離れた一定の仮定を立て、それにもとづいて物語をすすめている.

それが、作者の娯楽性の秘密である.

「福沢諭吉全集」 と 平山洋 (4)

「『時事新報論集』には『恐るべき言動』が含まれている」「中国人を『チャンチャン』呼ばわりした多くの「漫言」やら、日清戦争後に植民地となった台湾で蜂起した現地人を皆殺しにせよ、と主張する「台湾の騒動」(96.1.8)などの論説がある」

「私の考えでは、・・・『時事新報論集』はその大部分が無署名であり、大正版『福沢全集』(1925~26)と昭和版『続福沢全集』の編纂者であった弟子の石河幹明が・・・選んだものを、そのまま引き継いで収録しているに過ぎない.現行版『全集』(1958~64)の第16巻には福沢の没後数ヵ月してから掲載された論説が6編収められているのであるが、これらを本人(諭吉)がかけたはずがないのは言うまでもないであろう」(「福沢諭吉の真実」まえがき)

平山洋は、「福沢諭吉の真実」でこのように書いている.

「『時事新報論説』の大部分は無署名であり、6編は諭吉の死後の論説が収められている」(ので「時事新報論説」のすべてが諭吉が書いたものではない).平山が「まえがき」で主張しているのは、「諭吉の『批判者たち』は、諭吉が書いたものではない論説を含む「時事新報論説」をもとに諭吉の批判をしている」というものである.

この主張は、「死後に出された論説は、本人の書いたものではない」という普通のミステリー小説並の推理と、名作のミステリー並の表現、すなわち「『本人の死後出された論説は、本人の思想ではない』すなわち、『本人の思想とは大きくことなった他人の思想である』」と正確に書くことを避け、読者に同じ結論を出させる間接表現により、直接の「ウソ」を避けた方法による表現である. 

おそらく、平山は「福沢諭吉の真実」を書くにあたり、「厳格な検討をおこなうと、あまり研究者的でかたくなりすぎ、娯楽性をそこなう」という考えで、「諭吉の思想」と「時事新報論説の思想」の比較を軽くあつかい、「読者にわかりやすいこと」を重視したのであろう.

その結果、「福沢諭吉の真実」は、レベルの高いミステリーとして楽しむことができる読み物となっている.

「福沢諭吉全集」 と 平山洋 (3)

「福沢諭吉全集 全1巻」の半数近くの自作による石河幹明の偽作を見破った名探偵平山洋が、「犯人石河」の論説執筆期間について、「1885年~1922年」と「1887年~1922年」とを「勘違い」で間違えるはずがない.

それでは、間違いの原因は何であったのだろうか?

「福沢諭吉の真実」の著者よりは、とぼしい推理力で推理した結果は以下のとおりであった.

① 著者は、「諭吉の評価」がプラスとマイナスの2種類にわかれているとしている.

② 著者は、「時事新報論集」の「論説はもっぱら福沢批判者が、彼をおとしめる材料を探すために読んできたといってよい」(同書10ページ)と書いている.すなわち、諭吉に対する「批判」は諭吉を「おとしめる」ものであるとの「考え」あるいは「信念」をもっている.

③ この「考え」あるいは「信念」は、著者の「考え」を「諭吉への批判を批判する」方向へみちびく作用をおよぼす.

④ 石河は、福沢先生が時事新報創刊以来その紙上に執筆せられたる論説は約5000件あるべし」と書いている(同書68ページ).名探偵の推理は、5000というのは誤りで、実は石河が書いたものが大部分ということであるから、それをもっともらしく説明する必要がある.

⑤ そこで、「石河は『時事新報』在職の期間、せっせと論説を書いていたはず」と考え、つい「石河の在職期間」を紹介するときに、その間「毎日」論説を書いていたといってしまった.しかし、これは「文字どおりの毎日」ではなく、「文学的な強調表現としての『毎日』」である.

すなわち、「福沢諭吉の真実」の著者は、「研究者」ではなく、「文学者」としての能力を発揮したのである.そう理解すれば、この問題も理解できるし、この著書が娯楽物として楽しめるものになっていることも理解できる.

「福沢諭吉全集」 と 平山洋 (2)

平山洋(静岡県立大学国際関係学部助教授)は、その著「福沢諭吉の真実」(2002年 文芸春秋社刊)において、見事な推理で「『福沢諭吉全集前21巻』のうち諭吉の著作は約半数であり」、第8巻から第16巻までの9巻は、諭吉の弟子である石河幹明が「自分で執筆した論説を大量に、『福沢全集』の『時事論集』に採録し」、「それをもとに『福沢諭吉伝』第3巻を著したのであった」と大胆に結論している.

しかし、その「見事な推理」と「大胆な結論」が正しいかどうかの判断には、客観的な検討が必要である.

平山は、その著書「福沢諭吉の真実」の中で、石河幹明は「自分で執筆した論説を大量に、『福沢全集』の『時事論集』に採録し」たが、石河が「論説」をいつ書いたかについて、以下の2つの時期をあげている.

① 石河は、1885年4月から1922年5月までの間「毎日南鍋町の新聞社に出勤し、論説を書き続けていた」(同書147ページ)

② 「石河が『時事新報』で論説を担当していた」のは「1887年から1922年まで」(同書149ページ)

ここには、推理の根拠の不一致が見られる.「名探偵」は、これを見落としたのだろうか?

2007年11月21日水曜日

「福沢諭吉全集」 と 平山洋 (1)

「福沢諭吉全集」21巻(岩波書店刊)のうち、9巻を占める「時事新報論集」は、「全体として研究の対象とされたことは、これまでまれであった」(平山 洋「福沢諭吉の真実」2002年 文芸春秋刊)

「その理由は、・・・『時事新報』論説」の諸編には、「福沢の思想を無為にしかねない侵略賛美の論説」があり、「読むに値しないものとされた」からであり、「1500編以上という膨大な数」のためである(同).

同書で平山は以下の主張をしている.

① 多くの「識者」と国民は、「福沢諭吉全集」の「侵略賛美の論説」(同)はあまり研究せず、「侵略賛美でない論説」を多く読み、研究していたので、諭吉は「市民的自由主義者」(同)とみなされてきたが、「左翼思想家」(同)は「もっぱら」(同)「侵略賛美の論説」を研究して、諭吉を批判してきた.

② ところが、平山の研究によれば、「侵略賛美・時局迎合」の傾向をもっていた弟子の石河幹明が「自分で執筆した論説を大量に、『福沢全集』の『時事論集』に採録し、それをもとに『福沢諭吉伝』第3巻を著したのであった」(同).したがって、諭吉に対する否定的な批判は、石河幹明に向けられるべきである.

③ 石川の思想であり、福沢の思想ではない論説がほとんどである全集の「『時事新報論集』は、改定されなければならない」(同)

以上の平山の主張が正しいとすれば、「『福沢諭吉全集(全21巻)』は、結果として『福沢の思想』と『石河の思想』の2つの部分から編纂されてしまったので、諭吉の思想を正しく伝えるためには、全集を再編纂しなければならない」ことになり、事実平山はそう主張している.

(「福沢諭吉全集」 と 平山洋 (2)へつづく)

朝青龍 と 福沢諭吉

横綱朝青龍の再来日について、ビザ手続きが遅れ、来日予定が遅れました.
一部に「朝青龍側の責任だ」「クビだ」などという論評がおこなわれています.

朝青龍のビザの種類は「興行」です.
この場合、条件として「外国人の興行に係る業務について通算して3年以上の経験を有する経営者又は管理者がいること」があります.大相撲の興行は、日本相撲協会が主催しているのですから、外国人力士に対する援助・管理は相撲協会側の責任でもあります.開幕中に外国人力士の在留期間が過ぎたとすれば、それは力士だけの責任ですますことができるでしょうか?

朝青龍の場合のように、日本の習慣がよく説明されていなかったことで、本人の行動が気に食わないとか、今回のビザの問題のように相撲協会側の責任を棚上げにして、外国人にだけ責任を負わせる習慣は、福沢諭吉の時代からあります.

福沢諭吉は、日本の台湾・朝鮮の植民地化、中国への侵略戦争の遂行にあたり、相手が「野蛮」だから「文明」である日本は武力によっても、これらの地域を「文明化」することが必要だという宣伝を著作なり時事新報なりを通じておこないました.

これらの考え方は、日本がまだ「島国」であり、国際社会での立場をよく理解していないことを示しています.

2007年11月16日金曜日

あるとき、大阪から妙な女が来た

私が、十六、七(1851年か1852年)のときのことだと思う.

諭吉が「福翁自伝」で書いています.

大阪から妙な女が来たことがある.その女が「お稲荷様を使うことを知っている」という.

だれにも、御幣(ごへい.かつて、神に布(ぬの)を奉(たてまつ)る時には、木にはさんで備(そな)えていたが、それが変化したのが今日の御幣.Wikipedia)を持たして(「持たせて」ではない)おいて、何か祈るとその人に稲荷様がとっつくとか何とか言って、私のうちに来てホラを吹いている.

「ソリャ面白い.やってもらおう.オレがその御幣を持とう.持っている御幣が動き出すというのは面白い.サア持たして(「持たせて」ではない)くれろ」というと、その女はつくづく私を見ていて「坊さまはイケマヘン」というから、私は承知しない.「今だれにでもといったではないか.サアやって見せろ(「見しろ」ではない)」とひどくその女を弱らして(「弱らせて」ではない)面白かったことがある.

その女性は、2007年の現在でもテレビで「占い」を売り物にしているそうですが、それを10000円札の諭吉が見たら何というでしょう?

天皇は、諭吉の論文で教育されていた

1946、戦後まもなくのことです.
現在(2007年)の天皇が皇太子であったとき、小泉信三という人が皇太子の教育係りとなりました.

この人は、父親が第二代慶應義塾々長(1887年~1890年)で、自身も1933年から1947年まで慶應義塾の塾長でした.慶応義塾は、福沢諭吉が創設したのですから、福沢諭吉とも関係の深い人でした.小泉信三は、慶応義塾編・岩波書店発行の「福沢諭吉全集」全21巻および別巻の監修者でもありました.

この人の著書に「ジョオジ五世伝と帝室論」という本があります.この本の書き出しに「ご一緒に読んだ本のことといえば、福沢の「帝室論」と露伴の「運命」とは、殿下と私とで、かわるがわる音読した」とあります.

その「帝室論」には、天皇の役割として「バカな国民をだますための一つの手段」という考えが紹介されています.諭吉はその「手段」を有効に利用するためには、その正体をはっきりさせては「だまし」にはならないということから、「それは、政治の経験の少ない若造のいうことだ」といって、経験のある人はそのようなことを口には出さないことを強調しています.

諭吉は、同時に「『天皇』は『人は平等』という原則とは矛盾する」ことも口には出していません.

諭吉は、国民が「天皇陛下バンザイ」といって、財産のあとに命まで提供するという態度を「美しい」として教育・宣伝したのでした.その結果、日本の日清・日露・対中侵略戦争は太平洋戦争にまで進んでしまったのです.しかし、この過程で諭吉は「時事新報」の発行部数をのばし、大もうけをしたのです.

この「帝室論」を小泉信三はどのように皇太子に教えたのでしょうか?
それは、まさに諭吉が意図したとおりに、「(「天皇は、バカな国民をだます一つの手段」という考え方は)政治の経験の少ない若造がいうことである」といって片付けています.

諭吉の「天皇」や「宗教(ヤスクニ神社)」を利用して、国民をだまして戦争に引き込み、その一方で金もうけをする精神は、戦後も(2007年の現在も)ひきつづき勢力をたもっています.

しかし、その勢力は歴史のゴミ箱に向かって進んでいることを彼らは知っているのでしょうか?

諭吉が予言した美空ひばり

財産を提供した上で、天皇陛下バンザイといって命を提供する.それがお国のためだ.
福沢諭吉の富国強兵論です.

命を失っては、何も残らないのではない.ヤスクニ神社に祭られるのだ.
諭吉は、ヤスクニ神社の役割を理解していたと思われます.

「馬鹿と片輪に宗教、ちょうどよき取り合わせ」(1881年「宗教の説」福沢諭吉全集第20巻)といったのは、ヤスクニ神社ができたころでした.

上野の駅から 九段まで
杖をたよりに 一日がかり
せがれきたぞや 会いにきた

空をつくよな 大鳥居
こんな立派な おやしろに
母は泣けます うれしさに

美空ひばりが7歳のとき、父の入隊にあたって歌わされた歌です.
1901年に死んだ諭吉は、1943年に子供の美空ひばりがヤスクニ神社の宣伝の歌を歌うことを知っていたのでしょうか?

諭吉は、「天皇を選挙で決めよう」とは言わなかった

福沢諭吉は、「学問のすすめ」で、「『天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず』と言えり」といったので、「諭吉は、『人間は平等である』ことを主張し、教育した」と考えている人が多いようです.

しかし、諭吉は64歳になって「福翁自伝」で、子供のころから(故郷の)地方の人たちを軽蔑していたことを証言しています.大阪とは話し方が違うので「中津人は俗物であると思って」「目下にこれを見下して」いたとのことです.「まるで歯牙(しが)にもかけずに、いわば人を馬鹿にしていたようなものです」

そこで、親戚や近所の子供たちとも遊ばなかったので、「木にのぼること」もへたで、「泳ぐこと」もできなかったそうです.

また、母親が「下等社会の者に付き合うこと」や「えたでも乞食(こじき)でも近づけ」「軽蔑もしなければ忌(いや)がりもせず、言葉なども至極(しごく.とても)丁寧(ていねい)」だったことを、「変わっていた」と批判的にのべています.

「人の上に人をつくらない」のなら、「天皇は選挙で選ぶ」「天皇は、国民の間で順番制にする」「天皇は抽選で決める」といったのかと思えば、そうではなかったと考える人もいるかもしれません.

諭吉は、それよりももっとりこうだったのです.「天皇は、バカな国民をだますための一つの手段だ」という考えもある(1882年「帝室論」福沢諭吉全集第5巻)といって、「天皇と国のために財産と命を提供する」ことを教育・宣伝し、国民を朝鮮・台湾の植民地化、アジア侵略の戦争に追い込み、戦争の報道で自分の新聞「時事新報」の発行部数をのばし、大もうけをしたのです.

その亜流は、2007年の現在も最高額の10000円札に諭吉を肖像として掲げ、「憲法改正」「自衛隊海外派兵」などを叫んでいます.彼らもそれなりに「金をもうけている」のです.(それを支払っているのは、ミルク代から消費税を払っている赤ちゃんまでをも含む国民です)

福沢諭吉 と UFO

「外に敵を作ることが、内を治めることにつながる」との内容を福沢諭吉は主張しています.さらに、「外に敵を作ることが、『お金もうけ』につながる」ことも、実践しています.(いずれも、文献上の根拠を別途確認することが必要)

同じことを、アメリカの石油資本・軍事産業はブッシュを通じて実践しています.
その後を無批判について行くのが「アメリカのポチ」です.

2007年には、アフガニスタンやイラクの「敵」もアメリカ国民に対する説得力を失いはじめて、国民の過半数と民主党が戦争に反対するようになっています.

それでは、どこの「外」に「敵」を求めるのか?
それは、「宇宙」のようです.

次のようなニュースがありました.

米元州知事、本気で要請「ufo調べろ」
日刊スポーツ - 18時間前
米メディアは13日、米空軍の元パイロットらが米政府に対し、ufo(未確認飛行物体)の調査を再開するよう要請したと伝えた。米政府はこれまで「ufo=異星人説」を否定。公式調査は約40年前に終了し、その後行われていなかった。先月、民主党のクシニッチ大統領候補(61) ...
「ufoを調べて!」米政府に元空軍パイロットらがお願い サンケイスポーツ
2007/11/13-21:35 米政府にufo調査再開を要求=笑い事でないと元パイロットら 時事通信

2007年11月15日木曜日

稲荷(いなり)様の社(やしろ)を開けて見る!

諭吉が、神様の名のある御札(おふだ)をトイレで踏んだとき(十二、三歳のころ)から「一つも二つも年をとれば、年寄りなどの『神罰(しんばつ.神があたえるばつ)』などということは、大ウソだと信じ切って、今度は一つ稲荷様(いなりさま)を見てやろうという野心を起こし」おじの家の稲荷の社(やしろ)を開けてみます.

そして石を発見したので、その石を捨て、別の石を入れておきます.

「また、隣の下村という屋敷の稲荷様を開けてみれば、神体は何か木の札(ふだ)で、これもとって捨ててしまい、平気な顔していると、まもなく初午(はつうま)になって、のぼりを立てたり、太鼓(たいこ)をたたいたり、お神酒(おみき)を上げてワイワイしているから、私はおかしい.『馬鹿め、オレの入れておいた石にお神酒を上げて拝んでいるとは面白い』」(「福翁自伝」)

諭吉が、十三、四のころのことです.

神様のお札(おふだ)をトイレで踏んでみる

諭吉が十二、三歳のころのことです(「福翁自伝」).

兄が古い紙をそろえているとき、諭吉がそれを足で踏んでしまいます.
兄は、「殿様(とのさま)の名前の書いてある紙だ.踏むとは何だ」とおこります.
諭吉は「まことに悪うございましたから、かんにんしてください」とあやまりますが、不満です.

殿様の名前を書いてある古い紙を踏んで悪いのなら、「神様の名のある御札(おふだ)を踏んだらどうだろうと思って、人の見ぬところで踏んでみたがなんともない」

「コリャ面白い、今度はトイレでやってやろう」と少しこわかったが、トイレで御札を踏んでみたが「なんともない」

(この一、二年後、諭吉は「稲荷(いなり)様の社(やしろ)を開けて見る!」ことをおこない、石を発見します)

この後、諭吉は「神様は、拝むものではなく、利用するものだ」ということを知るのです.
諭吉が「馬鹿と片輪に宗教、丁度よき取り合わせ」(「宗教の説」福沢諭吉全集第20巻)といったのは、1881年ごろ.ちょうどヤスクニ神社ができたころでした.

(戦争で死ねば、ヤスクニ神社にまつられるよ.
空をつくよな 大鳥居、こんな立派な おやしろに、母は泣けます うれしさに...美空ひばりが7歳のとき、父の入隊にあたって歌った「九段の母」です.そのときには、「日の丸」も振られていたはずです)

諭吉は、「国のために、財産と命を提供する」ことをすすめて、戦争を応援し、戦争のニュースを自分の新聞「時事新報」で大いに売って、発行部数をのばし、大もうけをし、本当に「金持ち」になったのです.(お金の神様は、やっぱりスゴイ!)

「明治維新最大の思想家」

諭吉は、「明治維新最大の思想家」と信じている人がいます.

「学問のすすめ」(注)で、「『天は人の上に人を造(つく)らず、人の下に人を造らず』と言えり」と書いて、アメリカ独立宣言やフランス革命の「平等」の考え方を紹介したと理解されているからでしょうか?

注:
1872年(明治5年2月)初編出版。以降、1876年(明治9年11月25日)十七編出版を以って一応の完成をみた。その後1880年(明治13年)に「合本學問之勸序」という前書きを加え、一冊の本に合本された。その前書きによると初出版以来8年間で合計約70万冊が売れたとの事である。最終的には300万部以上売れたとされ、当時の日本の人口が3000万人程であったから実に10人に1人が読んだことになる(Wikipedia)

諭吉自身は、身分に上下のある封建性をきらい、故郷大分県中津を飛び出したのでしたが、成功して「金持ち」になったあとは、社会には身分の上下があることは当たり前と考えていました.

66歳のとき、「福翁自伝」でこう書いています.

(諭吉の母は)「少し変わっていたようです」「下等社会の者に付き合うことがすきで、出入りの百姓、町人は無論、えたでも乞食(こじき)でも、さっさと近づけて、軽蔑もしなければが嫌(いや)がりもせず、言葉など至極(しごく.とても)丁寧(ていねい)でした」

「母は少し変わっていたが、自分は普通だっだ」のです.
(「この人は、『学問のすすめ』を読んだことがあるのだろうか?」と考える人もあるかも知れません)

「何になるつもりか?」「日本一の大金持ちだ」(諭吉)

「福翁自伝」にあります.

これは、私の十六、七のころと思います.
兄が「お前はこれから先、何になるつもりか?」というから、「左様さ(さようさ.そうですね)、まず日本一の大金持ちになって思うさま金を使うてみようと思います」という.
(「福翁自伝」は、諭吉が63歳のとき口述して、1898-1899年に「時事新報」に連載されました)

「僕の夢は、一流のプロ野球選手になることです」(「僕の夢」小学校6年のイチローの作文)

諭吉の夢も、諭吉の努力により、実現されました.

封建的な枠組みをきらい、故郷を飛び出して、オランダ語・英語を習い、教育事業(慶応義塾の創設)と言論分野(新聞「時事新報」の発行)で成功し、「天皇制」と「宗教」を利用して、国民を戦争(日清・日露・対中国侵略戦争)に追いやり、戦争ニュースの報道で時事新報の発行部数を大いにのばして、大もうけをしたのです.

その思想は、太平洋戦争の遂行を支え、戦後も戦争責任の回避をつづける歴代政府の守護神となり、2007年の現在も最高額紙幣(10000円札)の肖像として、日本国民の上に君臨しています.

2007年11月14日水曜日

先祖代々、足軽は足軽. 諭吉は封建時代をどう見ていたか?

何百年たっても、一寸(チョイト)も動かぬ.
先祖代々、足軽は足軽. 

「福翁(ふくおう.福沢のおじいさん)自伝」によると、諭吉は、1835年に大阪に生まれました.父は中津藩の士族.中津は、九州福岡市の東.父が、大阪にある中津藩の蔵屋敷に勤めていたので、5人の子供はすべて「大阪で生まれたのです」

「総領(長男)の兄の次に女の子が3人、私は末っ子(すえっこ)」「数え(かぞえ)年で三つ」のとき、父が病死.「兄弟残らず母に連れられて藩地の中津に帰りました」

「私共兄弟5人は、どうしても中津人と一緒に混加(こんか.いっしょに参加)することができない」「中津の人が『そうじゃちこ』というところを、私共は『そうでおます』なんというような訳で、お互いにおかしいから、まず話ができない」

「私が少年のときから、木に登ることが不得手(ふえて.不得意)で、水を泳ぐことも皆無できぬというのも、とかく同藩中の子弟と打ち解けて遊ぶことができずに孤立したせいでしょう」

「中津は封建制度で、何百年たっても、足軽の子は足軽、何年たっても変化というものがない」

下級士族の次男であった諭吉は、将来の可能性がないということから、封建制度には批判的な理解をしていました.そこには、諭吉の未来に対する積極性が見られます.

しかし、結果として諭吉がとったのは、「天皇(注1)と宗教(注2)を利用して、国民をだまし、アジアの隣人から生命・財産・領土を奪う『大ニッポン帝国』の戦争の道でした.2007年現在、その功績がたたえられ、一万円札の肖像となり、「お金の神様」となっています.(しかし、その「お金」も紙くずとなるときが近づいているのを、この神様は知っているのでしょうか?)

注1:諭吉は「天皇は、『愚民を篭絡(ろうらく.だますこと)するの一欺術(ひとつのダマシの手段)』(188年「帝室論」福沢諭吉全集第5巻)という考え方があるが、政治の実情からすれば、そういって笑うのはよくない」といっています.
現在の天皇が皇太子であったとき、その教育係であった小泉信三は、この「帝室論」によって、皇太子を教育していました(小泉信三「ジョオジ五世伝と帝室論」1989年 文芸春秋社刊)

注2:諭吉は「馬鹿(バカ)と片輪(かたわ)に宗教、丁度よき取り合わせ」(1881年「宗教の説」全集第20巻)といっています.ヤスクニ神社ができたころでした.

諭吉は、この考え方をもちながら、「天皇と国のために命と財産をささげる」ことを国民に呼びかけ、それにより戦争(日清・日露・対中侵略戦争)を励まし、戦争のニュースの報道で発行した「時事新報」の部数を大いにのばし、大もうけしたのです.まさに、「お金の神様」というべきです.

しかし、封建制を批判していた諭吉が、このような人間になったのは、お金のせいでしょうか? それとも、司馬遼太郎が「坂の上の雲」で表現したように、日本が島々が集まった「まことに小さな国」であり、諭吉もその限界内の人間であったということなのでしょうか?

2007年11月13日火曜日

「学問のすすめ」とソロバン

一万円札の肖像となっている「お金の神様」福沢諭吉は、「福翁自伝」の中でこういっています.

「蔵屋敷(注)の中に手習いの師匠(ししょう.先生)があって、十歳ばかりになる兄と七、八歳になる姉などが手習い(文字を覚える勉強)をする.大阪のことだから、イロハニホヘトも教えるが、九九を教える.二二が四、二三が六.そのことを父が聞いて、「けしからぬ.子供に勘定(かんじょう.お金の計算のこと)を教えるのは、もってのほか」といって、取り返した(子供をひきもどした)」

(注)
蔵屋敷(くらやしき):江戸時代に大名(藩)が年貢米(ねんぐまい)などを販売するために設置した大阪などの倉庫・邸宅のこと.

士族(しぞく):「福沢諭吉の父は、豊前(ぶぜん.福岡市の東部)の士族で、福沢百助(ひゃくすけ).身分は、やっと藩主(江戸時代に1万石以上の領土を保有する封建領主である大名)の前に顔を出すことのできる程度.大阪にある藩主の蔵屋敷に勤務していた」(学問のすすめ)
(明治になって、かつての武士階級は華族(徳川宗家、大名)、士族(旗本、各藩の藩士)、卒族(足軽)に編成された)

諭吉の父は、諭吉が数え年(かぞえどし.生まれたときを1歳と数える歳(とし)の数え方)3歳で病死しました.母と兄、姉3人と諭吉の子供5人は、九州の東部・中津(なかつ)に戻ります.

「私共の兄弟は、中津人は俗物(ぞくぶつ.平凡は人間たち)であると思って、バカにしていた(軽蔑していた)ようなものです」

諭吉の証言(福翁自伝)によれば、諭吉は、四・五歳のころから、普通の人をバカにしていたのです.その諭吉は、後に「天皇と宗教」を利用して、国民をだまして戦争(日清・日露戦争、朝鮮・台湾の植民地化、対中国侵略戦争から太平洋戦争)に引き込む重要な役割を果たしました.

一方では、諭吉は戦争を後押しする形で報道・論評することで「時事新報」の発行部数をのばして、大もうけをしました.

諭吉は、お金のことを重視していただけかも知れませんが、彼の「時事新報」の宣伝が一定の役割をはたし、日本で300万人、アジアで2000万人、全世界で数千万人の犠牲を出した第2次世界大戦の基礎となったのです.

そして、2007年現在、諭吉は一万円札の肖像の形で、「お金の神様」として、日本人1億2千万人の上に立っています.

アジアの人たちの諭吉に対する理解と、日本人の諭吉に対する理解の違いは、日本の戦争責任の理解の違いでもあります.(安川寿之助「福沢諭吉のアジア認識」高文研発行 2000年)

「諭吉」の歴史的な意味を正しく理解したときに、はじめて日本人は国際社会の中で対等な立場に立つことができるでしょう.

それまでは、司馬遼太郎が「坂の上の雲」で正しく表現したように、日本は「まことに小さな」島が集まった「国」でしかないでしょう.


国土の大きさは、民族の大きさとは違います.

日本の本州の約半分、人口では10分の1以下の国キューバは、軍事・経済大国アメリカから数十年独立を維持していて、2007年の現在、女子バレーで日本と対等以上の戦いをするだけではなく、中南米諸国の尊敬を集めています.

同じ例は、ベトナムでも見られます.
これらの流れは、21世紀にラテンアメリカなど、世界中にに引き継がれ、世界史をリードしはじめています.

それに対して、日本はスポーツの国際試合でいくつかの金メダルを取ることはあっても、「アメリカのポチ」でありつづけています.

また、日本による侵略戦争と結びついた「日の丸」(福沢諭吉も「日章旗」といって、宣伝につとめていた)を「歴史の自覚のない選手たち」が「国旗」として「スポーツの成果」と結びつけつづけています.

これでは、アジアの中、国際社会の中で、日本が理解と共感を得ることはなかなか難しいことでしょう.

2007年11月10日土曜日

神様にお願いしないと解決できないと考える(アメリカ)

ワシントンから記者が伝えています.

米ジョージア州:深刻な水不足…知事が雨ごい計画
米南部ジョージア州で深刻な水不足が続いており、州知事は宗教家を招いて雨ごいをする礼拝式の開催を計画していると地元紙が報じた.

知事は州議会議事堂に各宗教の指導者を招き、降雨のため祈りをささげる.
州広報担当者は「政府に雨を降らせることはできない.より高い存在に要請をする必要がある」と語ったという.ラジオ局は「神に祈るのが究極の解決策だ」との州知事の発言を報じている.
(毎日新聞 2007年11月9日)

福沢諭吉は、すでに1881年につぎのようにいっています.

「馬鹿(バカ)と片輪(カタワ)に宗教、丁度(ちょうど)よき取合せ」(「宗教の説」全集第20巻).

諭吉によれば、この州知事がバカなのか、それとも州知事が州民をバカにしているのか、どちらなのでしょう? いずれにしても、政治に宗教を持ち込むことは誤りです.

日本にも同じ問題があります.
諭吉が推進した「天皇と宗教を利用して、国民をだまして侵略戦争を進める方式」で、諭吉の新聞「時事新報」は発行部数を大幅に拡大し、諭吉は大もうけをしました.

しかし、その方式は、日本で300万人、アジアで2000万人、世界で数千万人以上の犠牲を出した第2次世界大戦へとつながって行きました. 

戦争の反省として、日本では「戦争をしない」「戦力をもたない」憲法がつくられました.
そしてその憲法のもとで「全力をあげて、国連の理想と目的の達成に貢献する」という宣誓をした後に日本は国連加盟を認められました(1956年)

憲法9条は、日本の国際公約であり、国連の理想と目的を達成する前に、憲法9条を変えることは許されません.サンフランシスコ平和条約の前文にも同様の規定があります.条約締結国は、日本が国際社会の理解なく国際公約を守らなかった場合には、国際司法裁判所に提訴することができ、日本もそれに同意しています(日本との平和条約 第22条).

日本の戦争への反省が真実のものだと国際社会から認められていないのは、日本の政策が国際社会と平和への貢献よりも、アメリカの戦争政策への協力を重視していることによります.

1974年に福沢諭吉が一万円札の肖像として採用され、それが新デザインでもつづいていますが、戦後与党・政府は、米国の要求ししたがって警察予備隊(1950年)・保安隊(1952年)・自衛隊(1954年)、防衛庁(1954年)・防衛省(2007年)、テロ特措法、イラク特措法と憲法の軽視・無視をつづけています.

政府・与党の憲法軽視・無視の継続は、「憲法改正」をめざしながら、年金・税金の無駄遣い・私物化と平行して国民生活に大きな矛盾としてのしかかり、2007年末現在「ねじれ国会」として政治の変革が始まろうとしています.

この流れの中で、日本の宗教政党は与党に身を寄せ、「利権」と「戦争」、すなわち「お金が一番」の政策への協力をすすめています.

これらの流れは、いかにお金の神様が10000円札で肖像としてがんばろうとも、歴史のゴミ箱に流れ込む流れであることが、ますますあきらかになりつつあります.

「集団自殺」と福沢諭吉

沖縄戦の「集団自殺」で、旧日本軍の命令を否定する元軍人らが、軍関与を指摘した大江健三郎氏の著書『沖縄ノート』などで名誉を傷つけられたとし、同氏と出版元を訴えた裁判がありました.

大江氏は、「(軍の縦の構造の中で)命令はあったと考えていると証言.原告の元隊長が「沖縄ノート」を読まずに提訴したことも明らかになりました.(以上しんぶん赤旗 2007年11月10日)

旧日本軍は、アジア侵略戦争の中でおこなった数々の戦争犯罪を隠してきました.
731部隊の中国人を対象とした人体実験については、撤退にあたりその証拠を徹底的に消滅させました.しかし、そのデータを米軍に売ることによって、戦争犯罪追求をまぬがれ、その流れがミドリ十字により、薬害エイズ、C型肝炎などの薬害を引き起こし、それを時の政府に働きかけ、長年犯罪的な行為を続けていました.

このような例を考えると、その反省なく「軍の強制は、なかった」などという主張は、まじめなものとは考えられません.

犠牲者、国民、歴史に対する日本政府の責任は、大きいと思います.

2007年11月8日木曜日

「天皇陛下バンザイ」 と 福沢諭吉

「『天皇陛下バンザイ』といって死んだのだから、天皇がヤスクニ神社を参拝するのは当然だ」という人がいます.

お金の神様・福沢諭吉も同じ内容のことをいっていました.

日清戦争(1984-1985)のときです.
「財産を擲(なげう)つはもちろん、老少(ろうしょう.老人も子供も)の別なく切死(きりじに)して、人の種の尽(つ)きるまでも戦うの覚悟」が必要である.(1884年「日本臣民の覚悟」福沢諭吉全集 第14巻)

この考え方の基礎には、「学問のすすめ」(1872-1876)があります.
「国のためには財を失うのみならず、一命をもなげうちて惜(お)しむに足ら」(ないと考えることが必要である)

「学問のすすめ」は、「最終的には300万人以上売れたとされ、時の日本の人口が3000万人程であったから実に10人に1人が読んだことになる」(ウィキペディア)

この思想が「日清戦争」「日露戦争」「太平洋戦争にいたるアジア侵略戦争」を準備し、2007年の今なお10000円札の肖像としてほとんどの人が目にする宣伝がなされています.

諭吉は、創刊・発行した新聞「時事新報」でその思想を展開し、同時に「戦争のニュース」で発行部数をのばし、「金」を手にいれました.「諭吉は『お金の神様』」という表現は正確であるというべきです.

この「お金の神様」は、国民をだまして戦争に押しやり、その過程で「金」を手に入れるために、天皇と宗教を利用しました.

諭吉は、「天皇は『愚民(バカな国民)を篭絡するの(だますための)一欺術(ひとつのサギ的な手段』」という考え方があるといっています(1884年「帝室論」全集第5巻).

この「帝室論」は、東宮教育係を務めた小泉信三が皇太子(現在の天皇)の教育のために使用したものです.(小泉信三 『ジョオジ五世伝と帝室論』 文藝春秋、1989年)

諭吉は、また「馬鹿(バカ)と片輪(カタワ)に宗教、丁度(ちょうど)よき取合せ」ともいっています(1881年「宗教の説」全集第20巻).

この「宗教の説」は、ちょうどヤスクニ神社ができたころ(1881年)のものです.

「国や天皇のために財産を出し、命を捨てること」が必要であり、そのために戦死した者はヤスクニ神社に祭られるので、安心して死になさい.その間にわたしはお「金」をもうけるよ.

まさに、「お金の神様」としてふさわしい考え方です.

つぎの世代に、平和と地球環境を残す

「つぎの世代に、平和と地球環境を残すこと」
これに、だれが反対できるだろうか?

だれも反対することはできない.
しかし、それよりも「お金が大事」と考えれば、そのことを忘れてしまう.

福沢諭吉は、お金の神様として2007年の現在でも、1万円札の肖像になっている.
彼は、下級武士の次男としての将来をあきらめ、「学問で身をたてる」ことにした.

オランダ語を習い、ついで英語を習って、西洋の思想と文化を紹介した.
しかし、植民地主義・帝国主義を取り入れ、日本を戦争の道に進める役割を果たした.

彼は、「時事新報という報道機関」と「慶応義塾という教育機関」を活用して、
天皇制と宗教(靖国神社)を利用したアジア侵略の道を思想的に支えたのである.

彼は、日清戦争と日露戦争を正当化して、太平洋戦争への道を準備した.「天皇は、バカな国民をだます手段」(1882年「帝室論」福沢諭吉全集題5巻271㌻)として、天皇を利用していた.

靖国神社ができたころ、「バカとカタワと宗教は、ちょうどよい組み合わせだ」ともいっている.

(「馬鹿と片輪に宗教、丁度よき取合せならん」(1881年「宗教の説」福沢諭吉全集題20巻232㌻).内村鑑三は「福沢がみずから宗教を信ぜずして宗教を奨励したのは、宗教に対する最大の侮辱」(「宗教の大敵」)と糾弾していますが、諭吉は宗教を国民だましの手段として理解し、権力者たちに利用させていたのです)

彼は、人民を支配する手段を知っていたのだ.
その上で、侵略戦争に協力し、自分のために「金」を保証した.

戦争協力の道をとることで、時の権力から保護され、
利権を得る道を選んだのだ.

彼は、「お金を神様」とすることで、「つぎの世代に、平和と地球環境を残す」ことを投げ捨てた.その信奉者は、いまもまだ力をもっている.

雇い主が石油・軍事産業資本である米国のブッシュ大統領も同じ信奉者である.
位(くらい)が下のそのポチたち、その先輩や後輩たちも、同じ仲間である.

彼らは、歴史のゴミ箱に片足を入れながら、まだ生きている.
しかし、彼らの希望には無関係に歴史は動いて行く...

2007年11月7日水曜日

韓国と小林多喜二

「戦争と文学 いま小林多喜二を読む」の著者は、自書の韓国での訳書出版に際し、韓国で講演をしました.そのとき、ハングル版の「蟹(かに)工船」を古書店で見つけます.

それには、「党生活者」の困難な運動を描いた部分や強い決意をしめした部分にアンダーラインがほどこされていました.

この著者は、「蟹工船」がこのよう訳され、このように読まれていることに感動したと書いています(伊豆利彦横浜市立大学名誉教授 しんぶん赤旗で)

多喜二の死後、韓国の民主化運動の過程で、小林多喜二の小説が読まれていたのです.

真実と未来を見据える作品、それこそ真の芸術作品だと思いますが、そのような作品は時と場所を超えて、人々を勇気付ける力をもっているものだということをあらためて感じます.

2007年11月5日月曜日

国歌斉唱を拒否して着席、北海道文化賞受賞者

北海道文化賞贈賞式で、壇上にいた受賞者の1人とその夫人が、国歌斉唱の際いったん起立したものの、国旗に背を向けたまま自席に着席し斉唱に参加しないという一幕があったそうです(産経ニュース 2007.11.5)

式典後、この受賞者は「先の戦争で多くの仲間が特攻隊として死んでいった。とても立って(国歌を)歌う気になれない」と語ったそうです.

この受賞者がそういったのか、さらには特攻隊員以外の人たちの死にも「君が代」が利用されたことを指摘したのか、産経ニュースではわかりません.

多くの特攻隊員が死んでいっただけではなく、アジアで2000万人、日本で300万人以上の生命を奪った戦争が、「君が代」「日の丸」のもとでおこなわれたことを知って、「君が代」や「日の丸」が国歌・国旗として不適当だと考えるは多いのです.

それを行動におこすことには勇気が必要ですが、戦争に反対し、平和を求めることが死者をとむらうことでもあり、次世代の子供たちのためでもあります.

密室談合による「国際平和協力の原則」?!

小沢代表は、民主党代表の辞意表明にあたり、福田首相が「国際平和活動に関する自衛隊の派遣について、『国連安全保障理事会もしくは国連総会の決議によって設立、あるいは認められた国連活動への参加』に限る」とする見解を示し、これを“政策転換”と受け止め、「政策協議開始に値する」と判断した、としています.

小沢代表は、「テロ特措法」での海上自衛隊の給油は「米国の戦争」への協力であり、「憲法違反」であるから「反対」といっていました.

その一方、密室談合によって、福田首相と憲法違反を恒久化する「恒久法」についての合意をしていたのです.

日本は、国連参加にあたって、「日本が持つ全力をあげて、国連の理想と目的の達成に協力する」ことを宣誓し、それを認められて国連の参加が実現したのです.これが、日本の国際公約です.

「日本が持つ全力」の中には、「憲法9条」も入ります.
憲法は、日本がアジアで2000万人以上の犠牲を与えた戦争の反省の上につくられました.

安倍前首相のように、この前の戦争が正しかったとして、憲法9条を変えようとする人たちもいます.これは、特攻隊員やその家族をも含め、戦争の犠牲となった人たちの命と、生死をかけて戦争に反対した人たちの努力を無駄にするものです.

「日本は、『憲法9条』を守り、国連の理想と目的の実現に協力する」 ─ これが、戦争の反省であり、国連加盟での日本の国際公約であり、国際社会が認めた日本の国連参加の条件です.        

日本は、まさに「紛争の平和的解決」を主張することが、「国際平和協力の原則」であるべきです.

福田首相と小沢代表は、政治家としての資格も、日本人としての資格もないというべきです.                        

2007年11月2日金曜日

年金照合:3月終了は困難…誤入力数百万件

「年金記録の誤入力が数百万件あり、照合の3月終了は困難」と毎日新聞は伝えています.

3月終了が安倍前首相の公約でした.
升添厚生労働大臣も、それを守るといっていました.

それが、ウソであることがはっきりしたのです.

安倍前首相のイイカゲンさも、相当なものですが、タレント・国際政治学者の升添厚労相も同じ程度でないことを希望します.

2007年11月1日木曜日

「歴代社保長官に最大の責任」?

総務省の「年金記録問題検証委員会」は31日、「歴代の社会保険庁の長官や幹部職員の責任が最も重い」などとした最終報告書をまとめました(読売新聞).

社会保険庁の長官や幹部職員の責任が重いことは当然ですが、年金は「もう1つの税収」として、戦費調達のために戦争中につくられた制度です.その戦争中の精神をひきついできた戦後の歴代政府に最大の責任があると思います.

「年金を払うのは先のことだから、今のうち、どんどん使ってしまっても構わない」
「将来みんなに支払う時に金が払えなくなったら賦課式にしてしまえばいいのだから、それまでの間にせっせと使ってしまえ」

これが、1942年に年金法ができたときの実務責任者の考え方でした(後に本人が証言し、第159回国会 予算委員会でも取り上げられています.
http://www.office-onoduka.com/mag2/005_20070304.html
http://iiyu.asablo.jp/blog/2007/07/19/1665500

この年金を「戦費と利権のもととして使う」戦前の考え方は、「憲法を軽視・無視・否定」する戦後の政治の中で温存されてきました.そのことこそが、国民にとって最大の問題なのだと思います.