2008年2月8日金曜日

日本の国富、9年ぶりに増加…地価上昇が影響

日本の国富、9年ぶりに増加…地価上昇が影響

 内閣府が8日発表した2006年度の国民経済計算(確報)によると、国民全体が保有する土地や建物などの資産から負債を差し引いた「国富」(国全体の富=正味の資産)は、06年末で前年末比2・9%増の2716兆6000億円と9年ぶりに増えた。
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 地価が上昇に転じたことに加えて、為替相場が円安に振れたために対外資産の評価額が膨らみ、国富を押し上げた。ただ、ピークだったバブル期の90年末(3533兆1000億円)と比べると、約4分の3にとどまっている。

 国富の約半分を占める土地の資産額は、前年末比0・5%増の1228兆円となり、16年ぶりに増えた。株式はほぼ横ばいの724兆8000億円だった。
(2008年2月8日19時47分 読売新聞)

「他を思いやり、自己犠牲をもいとわないわが国の『国民性』」

「他を思いやり、自己犠牲をもいとわない」ことが「わが国の国民性」であるという
ここに、適当なことをいって「メシを食べる」伝統的な連中がいる

「明治維新は、武士が特権を放棄した『公共の精神』によるものであった」
『版籍奉還』『廃藩置県』は明治版の『公地公民』であった」という

「『古事記』の『出雲の国の国譲り』は、『天皇制は公共性を帯びたことを明らかにした』」
「天皇統治は、個人や一族の利益のためではなく、『しらす』という統治理念である」という

それは、「本居宣長が発見し、明治の帝国憲法を起草した井上毅が再発見した」
「世界を家族的情愛でもって統治しようという神武天皇の『八紘一宇』の理想」だという

「豪族の私的支配を戒め、天皇を中心に国がまとまることを示した聖徳太子の十七条憲法」
「豪族のみならず皇族の土地まで没収した大化の改新から始まる『公地公民』」

「そこにおける『天皇』という『無私』の地位…」
「これらから浮かび上がってくるのは『公共の精神』という概念である」という

「国のかたち」「建国の精神」とは、つまり「『しらす』という統治理念である」という
ここにも、「自分のリクツで統治」し「自分のリクツでメシを食べる」伝統がある

「『自分のリクツで統治し、メシを食べる』ことを『公共の精神』という表現でだます」
これが、伝統的な手法である

「『戦争末期に各地で起こった集団自決』も『公共の精神』の表れであった」
「樺太・真岡の電話交換手の女性9人がソ連軍の侵攻に際して集団自決した」のも同じである

「特攻隊の若者たちの気持ちも同じところにあった」
これらは「強い責任感」「公共の精神」の結果で、「だました」「犠牲を強いた」のではない

ここには、国民を「公共の精神」でだまし、「自分たちはメシを食べる」者のリクツがある
それこそが、彼らの「伝統的な精神」「伝統的な歴史」「伝統的な文化」である

その「だまし」をごまかすために、「自己犠牲をいとわない姿」を描くことを「いとわない」
1946年、食料が尽きながらも、屋久島の灯台の火を灯し続けた灯台守

1992年、バルセロナのマラソンで、後続がつまずかないようにとドリンクの容器を道からそれて脇に捨て、結果、8秒差で惜しくも銀メダルとなった有森選手などなど

「だます者たち」は、まじめに生きる庶民を食い物にして「メシを食べる」
ここに、国の建国以来の「国のかたち」「権力者のメシの食べ方」が投影されている

歴史を振り返ったとき、一貫して「公共の精神」の名目で国民をだまし
それによってメシを食べてきた者たちの姿が浮かび上がってくる

「『公共の精神』という『建国の精神』を口実とするダマシの手口」は、今も生きている
「高貴な日本」を取り戻すためには、この「ダマシの伝統」を捨て去ることが必要なことだ

(この文中の引用は、原著者の思想の背景について論評することを目的としており、表現の自由、著作権法の範囲である.異論があれば、またそれが正当なものであれば、考慮するのでご連絡をお願いする.引用元の文章は、以下のとおりである)

(参考)
【正論】高崎経済大学教授・八木秀次 「建国の精神」に立ち返ろう
2008.2.8 03:17
このニュースのトピックス:正論

 ■日本本来の高貴さ取り戻すために

 ≪7世紀末に「国のかたち」≫

 今、行われているアメリカ大統領選の予備選挙において、候補者たちが演説でワシントンやリンカーンなど「建国の父たち」に言及しているのを耳にすることがある。アメリカ人にとって「建国の精神」を確認するのが4年に1度の大統領選ということらしいが、国を挙げて「建国の精神」に立ち返る姿はうらやましくもある。

 どこの国もそうだが、「建国の精神」は何よりも重視されるものだ。自分たちの父祖はこのような理想の下に国を作り上げたのだ、ということを折に触れて確認し、また、そこに立ち返り、「建国の精神」の発展・延長の上に今日があるのだと納得するという具合だ。

 間もなく今年も2月11日の「建国記念の日」を迎えるが、わが国の場合の「建国の精神」とは何だろうか。『古事記』『日本書紀』の伝えるところによれば、神武天皇が橿原宮で即位されたことをもってわが国の建国とするが、独立宣言によってアメリカの「国のかたち」が確立したということができないのと同じように、日本の場合も神武天皇のご即位で完全に「国のかたち」が固まったとは言い難い。

 最近の研究によれば、対外的な危機を経て国家としての自立を示すために生み出された「日本」という国号や「天皇」という君主号が固まった天武天皇・持統天皇の時代、すなわち7世紀の終わり辺りに日本の「国のかたち」がようやく固まったと見るようだ。

 ≪「公共の精神」という概念≫

 では、そこで固まった「国のかたち」、言い換えれば「建国の精神」とは何だろうか。

 本居宣長が発見し、明治の帝国憲法を起草した井上毅が再発見した『古事記』の「出雲の国の国譲り」の神話に示される、天皇統治は個人や一族の利益のために行われるものではなく優れて公共性を帯びたものであることを明らかにした「しらす」という統治理念。

 世界を家族的情愛でもって統治しようという神武天皇の「八紘一宇」の理想。豪族の私的支配を戒め、天皇を中心に国がまとまることを示した聖徳太子の十七条憲法。豪族のみならず皇族の土地まで没収した大化の改新から始まる「公地公民」。またそこにおける「天皇」という無私の地位…。

 これらから浮かび上がってくるのは「公共の精神」という概念である。

 私は最近、他を思いやり、自己犠牲をもいとわないわが国の国民性は、この建国の時代に固まった「国のかたち」のなし得るものであるという感を強くしている。

 武士が自らの特権を放棄して行った明治維新はまさに彼らの自己犠牲、「公共の精神」を重んずる姿勢によってこそなし得たものであったし、「版籍奉還」「廃藩置県」は明治版の「公地公民」と考えれば分かりやすい。

 沖縄のみならず大東亜戦争の末期に各地で起こった集団自決という悲劇もその精神の一つの表れであったろう。例えば映画『氷雪の門』が描いた樺太・真岡の電話交換手の女性9人がソ連軍の侵攻に際して集団自決した事件も、彼女たちが内地に引き揚げろとの軍の命令を拒否してまで職務を最後までまっとうしようという強い責任感の持ち主であったがゆえの悲劇だった。特攻隊の若者たちの気持ちも同じところにあっただろう。

 ≪自己犠牲をいとわない姿≫

 名越眞之氏の近著『品格ある日本人』(PHP研究所)に紹介されているものだが、昭和21年、食料が尽き、栄養失調になりながらもはうようにして屋久島永田岬の灯台の火を灯し続けた高橋義守さんという灯台守や、1992年、スペイン・バルセロナオリンピックのマラソンレースで後続のランナーがつまずかないようにと補給ドリンクの容器をわざわざ道からそれて脇に捨て、結果、8秒差で惜しくも銀メダルとなった有森裕子選手などなど、戦後においても他を思いやり、自己犠牲をいとわない日本人の姿はあちこちに見いだされる。

 私たちが普段、意識せず行っている思考や行動、ここに私たちの国の建国以来の「国のかたち」が投影されているとは意外なことかもしれない。しかし、わが国の歴史を振り返ってみたとき、一貫して「公共の精神」を重んずる日本人の姿が浮かび上がってくるのだ。

 私たちは知らず知らずのうちに「公共の精神」を重んずるという「建国の精神」を今も生きている。そのことを「建国記念の日」に当たって自覚することは「溶け行く日本」を再生させ、本来の「高貴な日本」に戻るためにも必要なことだと思われるのだ。(やぎ ひでつぐ)