2007年11月14日水曜日

先祖代々、足軽は足軽. 諭吉は封建時代をどう見ていたか?

何百年たっても、一寸(チョイト)も動かぬ.
先祖代々、足軽は足軽. 

「福翁(ふくおう.福沢のおじいさん)自伝」によると、諭吉は、1835年に大阪に生まれました.父は中津藩の士族.中津は、九州福岡市の東.父が、大阪にある中津藩の蔵屋敷に勤めていたので、5人の子供はすべて「大阪で生まれたのです」

「総領(長男)の兄の次に女の子が3人、私は末っ子(すえっこ)」「数え(かぞえ)年で三つ」のとき、父が病死.「兄弟残らず母に連れられて藩地の中津に帰りました」

「私共兄弟5人は、どうしても中津人と一緒に混加(こんか.いっしょに参加)することができない」「中津の人が『そうじゃちこ』というところを、私共は『そうでおます』なんというような訳で、お互いにおかしいから、まず話ができない」

「私が少年のときから、木に登ることが不得手(ふえて.不得意)で、水を泳ぐことも皆無できぬというのも、とかく同藩中の子弟と打ち解けて遊ぶことができずに孤立したせいでしょう」

「中津は封建制度で、何百年たっても、足軽の子は足軽、何年たっても変化というものがない」

下級士族の次男であった諭吉は、将来の可能性がないということから、封建制度には批判的な理解をしていました.そこには、諭吉の未来に対する積極性が見られます.

しかし、結果として諭吉がとったのは、「天皇(注1)と宗教(注2)を利用して、国民をだまし、アジアの隣人から生命・財産・領土を奪う『大ニッポン帝国』の戦争の道でした.2007年現在、その功績がたたえられ、一万円札の肖像となり、「お金の神様」となっています.(しかし、その「お金」も紙くずとなるときが近づいているのを、この神様は知っているのでしょうか?)

注1:諭吉は「天皇は、『愚民を篭絡(ろうらく.だますこと)するの一欺術(ひとつのダマシの手段)』(188年「帝室論」福沢諭吉全集第5巻)という考え方があるが、政治の実情からすれば、そういって笑うのはよくない」といっています.
現在の天皇が皇太子であったとき、その教育係であった小泉信三は、この「帝室論」によって、皇太子を教育していました(小泉信三「ジョオジ五世伝と帝室論」1989年 文芸春秋社刊)

注2:諭吉は「馬鹿(バカ)と片輪(かたわ)に宗教、丁度よき取り合わせ」(1881年「宗教の説」全集第20巻)といっています.ヤスクニ神社ができたころでした.

諭吉は、この考え方をもちながら、「天皇と国のために命と財産をささげる」ことを国民に呼びかけ、それにより戦争(日清・日露・対中侵略戦争)を励まし、戦争のニュースの報道で発行した「時事新報」の部数を大いにのばし、大もうけしたのです.まさに、「お金の神様」というべきです.

しかし、封建制を批判していた諭吉が、このような人間になったのは、お金のせいでしょうか? それとも、司馬遼太郎が「坂の上の雲」で表現したように、日本が島々が集まった「まことに小さな国」であり、諭吉もその限界内の人間であったということなのでしょうか?