2007年11月15日木曜日

稲荷(いなり)様の社(やしろ)を開けて見る!

諭吉が、神様の名のある御札(おふだ)をトイレで踏んだとき(十二、三歳のころ)から「一つも二つも年をとれば、年寄りなどの『神罰(しんばつ.神があたえるばつ)』などということは、大ウソだと信じ切って、今度は一つ稲荷様(いなりさま)を見てやろうという野心を起こし」おじの家の稲荷の社(やしろ)を開けてみます.

そして石を発見したので、その石を捨て、別の石を入れておきます.

「また、隣の下村という屋敷の稲荷様を開けてみれば、神体は何か木の札(ふだ)で、これもとって捨ててしまい、平気な顔していると、まもなく初午(はつうま)になって、のぼりを立てたり、太鼓(たいこ)をたたいたり、お神酒(おみき)を上げてワイワイしているから、私はおかしい.『馬鹿め、オレの入れておいた石にお神酒を上げて拝んでいるとは面白い』」(「福翁自伝」)

諭吉が、十三、四のころのことです.

神様のお札(おふだ)をトイレで踏んでみる

諭吉が十二、三歳のころのことです(「福翁自伝」).

兄が古い紙をそろえているとき、諭吉がそれを足で踏んでしまいます.
兄は、「殿様(とのさま)の名前の書いてある紙だ.踏むとは何だ」とおこります.
諭吉は「まことに悪うございましたから、かんにんしてください」とあやまりますが、不満です.

殿様の名前を書いてある古い紙を踏んで悪いのなら、「神様の名のある御札(おふだ)を踏んだらどうだろうと思って、人の見ぬところで踏んでみたがなんともない」

「コリャ面白い、今度はトイレでやってやろう」と少しこわかったが、トイレで御札を踏んでみたが「なんともない」

(この一、二年後、諭吉は「稲荷(いなり)様の社(やしろ)を開けて見る!」ことをおこない、石を発見します)

この後、諭吉は「神様は、拝むものではなく、利用するものだ」ということを知るのです.
諭吉が「馬鹿と片輪に宗教、丁度よき取り合わせ」(「宗教の説」福沢諭吉全集第20巻)といったのは、1881年ごろ.ちょうどヤスクニ神社ができたころでした.

(戦争で死ねば、ヤスクニ神社にまつられるよ.
空をつくよな 大鳥居、こんな立派な おやしろに、母は泣けます うれしさに...美空ひばりが7歳のとき、父の入隊にあたって歌った「九段の母」です.そのときには、「日の丸」も振られていたはずです)

諭吉は、「国のために、財産と命を提供する」ことをすすめて、戦争を応援し、戦争のニュースを自分の新聞「時事新報」で大いに売って、発行部数をのばし、大もうけをし、本当に「金持ち」になったのです.(お金の神様は、やっぱりスゴイ!)

「明治維新最大の思想家」

諭吉は、「明治維新最大の思想家」と信じている人がいます.

「学問のすすめ」(注)で、「『天は人の上に人を造(つく)らず、人の下に人を造らず』と言えり」と書いて、アメリカ独立宣言やフランス革命の「平等」の考え方を紹介したと理解されているからでしょうか?

注:
1872年(明治5年2月)初編出版。以降、1876年(明治9年11月25日)十七編出版を以って一応の完成をみた。その後1880年(明治13年)に「合本學問之勸序」という前書きを加え、一冊の本に合本された。その前書きによると初出版以来8年間で合計約70万冊が売れたとの事である。最終的には300万部以上売れたとされ、当時の日本の人口が3000万人程であったから実に10人に1人が読んだことになる(Wikipedia)

諭吉自身は、身分に上下のある封建性をきらい、故郷大分県中津を飛び出したのでしたが、成功して「金持ち」になったあとは、社会には身分の上下があることは当たり前と考えていました.

66歳のとき、「福翁自伝」でこう書いています.

(諭吉の母は)「少し変わっていたようです」「下等社会の者に付き合うことがすきで、出入りの百姓、町人は無論、えたでも乞食(こじき)でも、さっさと近づけて、軽蔑もしなければが嫌(いや)がりもせず、言葉など至極(しごく.とても)丁寧(ていねい)でした」

「母は少し変わっていたが、自分は普通だっだ」のです.
(「この人は、『学問のすすめ』を読んだことがあるのだろうか?」と考える人もあるかも知れません)

「何になるつもりか?」「日本一の大金持ちだ」(諭吉)

「福翁自伝」にあります.

これは、私の十六、七のころと思います.
兄が「お前はこれから先、何になるつもりか?」というから、「左様さ(さようさ.そうですね)、まず日本一の大金持ちになって思うさま金を使うてみようと思います」という.
(「福翁自伝」は、諭吉が63歳のとき口述して、1898-1899年に「時事新報」に連載されました)

「僕の夢は、一流のプロ野球選手になることです」(「僕の夢」小学校6年のイチローの作文)

諭吉の夢も、諭吉の努力により、実現されました.

封建的な枠組みをきらい、故郷を飛び出して、オランダ語・英語を習い、教育事業(慶応義塾の創設)と言論分野(新聞「時事新報」の発行)で成功し、「天皇制」と「宗教」を利用して、国民を戦争(日清・日露・対中国侵略戦争)に追いやり、戦争ニュースの報道で時事新報の発行部数を大いにのばして、大もうけをしたのです.

その思想は、太平洋戦争の遂行を支え、戦後も戦争責任の回避をつづける歴代政府の守護神となり、2007年の現在も最高額紙幣(10000円札)の肖像として、日本国民の上に君臨しています.