2007年10月30日火曜日

広重も[お金」にこまっていた

広重といえば、北斎についで日本の代表的な画家の一人.
その広重も、芸術家らしく(?)、お金に困っていた.
朝日新聞が伝えています.

広重の窮状、版元が助ける 絵の裏に「庶民金融」の記録

2007年10月29日17時18分

 江戸時代の浮世絵師歌川広重(1797~1858)が金に困った際に、出版業者たちが庶民金融である無尽講で助けていた――。東京・原宿の太田記念美術館が所蔵する広重の「江戸名所写生帖(ちょう)」に使われた紙の裏に書かれた記録から、当時のこんな実態が明らかになった。広重の暮らしぶりや、絵師と版元との関係がわかる貴重な史料だ。11月1日から同館で開かれる「肉筆広重展」に出品される。

(写真)

「江戸名所写生帖」からみつかった頼母子講の記録。右下に「講元 歌川広重」とある

 「江戸名所写生帖」は、広重の晩年にあたる1856年ごろに描かれた写生を集めたもの。今回、展覧会にあたって写生帖を解体したところ、紙の裏に、無尽講の一種である頼母子(たのもし)講と相続講の記録があるのが見つかった。この記録によると、頼母子講は広重の「東海道」シリーズなどを出版した蔦屋吉蔵が世話人となり、広重を含む大手版元ら21人がそれぞれ1両ずつ掛け金を出し合う形で開かれた。初めに集められた金は広重が受け取り、以後20回にわたって、くじで当たった版元に順次融通されたとみられる。記録されていた干支(えと)などから、1850年に開かれたらしい。

 その前年、広重は家を新築移転しているが、その資金として札差しから100両を借りたという話が広重の家に伝わっていた。また、広重の遺言には、居宅を売って、借金を返済するよう書かれており、晩年は家計が苦しかったようだ。

 調査をした同館の奥田敦子主任学芸員は「頼母子講の金は、新居の資金にあてられた可能性が高い。版元としても売れっ子絵師との関係を深め、版元同士の交流を深める意味もあったのでは」と見る。

 無尽講は江戸時代、庶民の相互扶助の金融として流行した。広重は講を記録した帳面を写生帖に再利用したらしい。