2007年11月22日木曜日

「福沢諭吉全集」 と 平山洋 (5)

「福沢諭吉の真実」の著者平山洋は、以下の論旨を立てている.

① 諭吉批判者は、無署名論文を諭吉の思想として批判している.
② しかし、無署名論文の多くは、弟子の石河幹明が書いて、意図的に「全集」にまぎれこませた(と考える)ものなので、諭吉批判は成立しない.

これが、結果として「娯楽性の高いミステリー」となった「福沢諭吉の真実」の筋書きである.これは厳格な検討は話をかたくしすぎて、娯楽性をそこなうと考え、実体から離れた仮定を前提として話を進めたという作者のサービス精神によるものと考えられる.

以下がその例の一つである.

① 平山の話の前提は、諭吉執筆か石河執筆かの判定にあたり、両者の用語の違いを基準の一つとする.諭吉は「臣民」の用語を用いず、石河はそれを用いる.この基準で、諭吉の「尊王論」(88年10月刊)には、それ以前の(諭吉の)文章では使用が確認できない「臣民」が使われている.また、「天下万民」「日本人固有の性」という表現から、「尊王論」の真の起草者は石河幹明であることが判明した.(「福沢諭吉の真実」83ページ)

② しかし、諭吉は「尊王論」の刊行前の「徳教之説」(1883年)で、「臣民」「日本臣民」の表現を使い始め、以来10年余にわたり「臣民」の用語を使いつづけている.(安川寿之輔「福沢諭吉の戦争論と天皇制論」2006年 高文研刊 17ページ)

このように、「福沢諭吉の真実」の作者は、話を面白くするために事実とは離れた一定の仮定を立て、それにもとづいて物語をすすめている.

それが、作者の娯楽性の秘密である.

1 件のコメント:

平山 洋 さんのコメント...

「尊王論」の起筆者判定につきましては、拙サイト掲載の論文をご参照ください。

http://blechmusik.xrea.jp/d/hirayama/h31/00/