何百年たっても、一寸(チョイト)も動かぬ.
先祖代々、足軽は足軽.
「福翁(ふくおう.福沢のおじいさん)自伝」によると、諭吉は、1835年に大阪に生まれました.父は中津藩の士族.中津は、九州福岡市の東.父が、大阪にある中津藩の蔵屋敷に勤めていたので、5人の子供はすべて「大阪で生まれたのです」
「総領(長男)の兄の次に女の子が3人、私は末っ子(すえっこ)」「数え(かぞえ)年で三つ」のとき、父が病死.「兄弟残らず母に連れられて藩地の中津に帰りました」
「私共兄弟5人は、どうしても中津人と一緒に混加(こんか.いっしょに参加)することができない」「中津の人が『そうじゃちこ』というところを、私共は『そうでおます』なんというような訳で、お互いにおかしいから、まず話ができない」
「私が少年のときから、木に登ることが不得手(ふえて.不得意)で、水を泳ぐことも皆無できぬというのも、とかく同藩中の子弟と打ち解けて遊ぶことができずに孤立したせいでしょう」
「中津は封建制度で、何百年たっても、足軽の子は足軽、何年たっても変化というものがない」
下級士族の次男であった諭吉は、将来の可能性がないということから、封建制度には批判的な理解をしていました.そこには、諭吉の未来に対する積極性が見られます.
しかし、結果として諭吉がとったのは、「天皇(注1)と宗教(注2)を利用して、国民をだまし、アジアの隣人から生命・財産・領土を奪う『大ニッポン帝国』の戦争の道でした.2007年現在、その功績がたたえられ、一万円札の肖像となり、「お金の神様」となっています.(しかし、その「お金」も紙くずとなるときが近づいているのを、この神様は知っているのでしょうか?)
注1:諭吉は「天皇は、『愚民を篭絡(ろうらく.だますこと)するの一欺術(ひとつのダマシの手段)』(188年「帝室論」福沢諭吉全集第5巻)という考え方があるが、政治の実情からすれば、そういって笑うのはよくない」といっています.
現在の天皇が皇太子であったとき、その教育係であった小泉信三は、この「帝室論」によって、皇太子を教育していました(小泉信三「ジョオジ五世伝と帝室論」1989年 文芸春秋社刊)
注2:諭吉は「馬鹿(バカ)と片輪(かたわ)に宗教、丁度よき取り合わせ」(1881年「宗教の説」全集第20巻)といっています.ヤスクニ神社ができたころでした.
諭吉は、この考え方をもちながら、「天皇と国のために命と財産をささげる」ことを国民に呼びかけ、それにより戦争(日清・日露・対中侵略戦争)を励まし、戦争のニュースの報道で発行した「時事新報」の部数を大いにのばし、大もうけしたのです.まさに、「お金の神様」というべきです.
しかし、封建制を批判していた諭吉が、このような人間になったのは、お金のせいでしょうか? それとも、司馬遼太郎が「坂の上の雲」で表現したように、日本が島々が集まった「まことに小さな国」であり、諭吉もその限界内の人間であったということなのでしょうか?
2007年11月14日水曜日
2007年11月13日火曜日
「学問のすすめ」とソロバン
一万円札の肖像となっている「お金の神様」福沢諭吉は、「福翁自伝」の中でこういっています.
「蔵屋敷(注)の中に手習いの師匠(ししょう.先生)があって、十歳ばかりになる兄と七、八歳になる姉などが手習い(文字を覚える勉強)をする.大阪のことだから、イロハニホヘトも教えるが、九九を教える.二二が四、二三が六.そのことを父が聞いて、「けしからぬ.子供に勘定(かんじょう.お金の計算のこと)を教えるのは、もってのほか」といって、取り返した(子供をひきもどした)」
(注)
蔵屋敷(くらやしき):江戸時代に大名(藩)が年貢米(ねんぐまい)などを販売するために設置した大阪などの倉庫・邸宅のこと.
士族(しぞく):「福沢諭吉の父は、豊前(ぶぜん.福岡市の東部)の士族で、福沢百助(ひゃくすけ).身分は、やっと藩主(江戸時代に1万石以上の領土を保有する封建領主である大名)の前に顔を出すことのできる程度.大阪にある藩主の蔵屋敷に勤務していた」(学問のすすめ)
(明治になって、かつての武士階級は華族(徳川宗家、大名)、士族(旗本、各藩の藩士)、卒族(足軽)に編成された)
諭吉の父は、諭吉が数え年(かぞえどし.生まれたときを1歳と数える歳(とし)の数え方)3歳で病死しました.母と兄、姉3人と諭吉の子供5人は、九州の東部・中津(なかつ)に戻ります.
「私共の兄弟は、中津人は俗物(ぞくぶつ.平凡は人間たち)であると思って、バカにしていた(軽蔑していた)ようなものです」
諭吉の証言(福翁自伝)によれば、諭吉は、四・五歳のころから、普通の人をバカにしていたのです.その諭吉は、後に「天皇と宗教」を利用して、国民をだまして戦争(日清・日露戦争、朝鮮・台湾の植民地化、対中国侵略戦争から太平洋戦争)に引き込む重要な役割を果たしました.
一方では、諭吉は戦争を後押しする形で報道・論評することで「時事新報」の発行部数をのばして、大もうけをしました.
諭吉は、お金のことを重視していただけかも知れませんが、彼の「時事新報」の宣伝が一定の役割をはたし、日本で300万人、アジアで2000万人、全世界で数千万人の犠牲を出した第2次世界大戦の基礎となったのです.
そして、2007年現在、諭吉は一万円札の肖像の形で、「お金の神様」として、日本人1億2千万人の上に立っています.
アジアの人たちの諭吉に対する理解と、日本人の諭吉に対する理解の違いは、日本の戦争責任の理解の違いでもあります.(安川寿之助「福沢諭吉のアジア認識」高文研発行 2000年)
「諭吉」の歴史的な意味を正しく理解したときに、はじめて日本人は国際社会の中で対等な立場に立つことができるでしょう.
それまでは、司馬遼太郎が「坂の上の雲」で正しく表現したように、日本は「まことに小さな」島が集まった「国」でしかないでしょう.
国土の大きさは、民族の大きさとは違います.
日本の本州の約半分、人口では10分の1以下の国キューバは、軍事・経済大国アメリカから数十年独立を維持していて、2007年の現在、女子バレーで日本と対等以上の戦いをするだけではなく、中南米諸国の尊敬を集めています.
同じ例は、ベトナムでも見られます.
これらの流れは、21世紀にラテンアメリカなど、世界中にに引き継がれ、世界史をリードしはじめています.
それに対して、日本はスポーツの国際試合でいくつかの金メダルを取ることはあっても、「アメリカのポチ」でありつづけています.
また、日本による侵略戦争と結びついた「日の丸」(福沢諭吉も「日章旗」といって、宣伝につとめていた)を「歴史の自覚のない選手たち」が「国旗」として「スポーツの成果」と結びつけつづけています.
これでは、アジアの中、国際社会の中で、日本が理解と共感を得ることはなかなか難しいことでしょう.
「蔵屋敷(注)の中に手習いの師匠(ししょう.先生)があって、十歳ばかりになる兄と七、八歳になる姉などが手習い(文字を覚える勉強)をする.大阪のことだから、イロハニホヘトも教えるが、九九を教える.二二が四、二三が六.そのことを父が聞いて、「けしからぬ.子供に勘定(かんじょう.お金の計算のこと)を教えるのは、もってのほか」といって、取り返した(子供をひきもどした)」
(注)
蔵屋敷(くらやしき):江戸時代に大名(藩)が年貢米(ねんぐまい)などを販売するために設置した大阪などの倉庫・邸宅のこと.
士族(しぞく):「福沢諭吉の父は、豊前(ぶぜん.福岡市の東部)の士族で、福沢百助(ひゃくすけ).身分は、やっと藩主(江戸時代に1万石以上の領土を保有する封建領主である大名)の前に顔を出すことのできる程度.大阪にある藩主の蔵屋敷に勤務していた」(学問のすすめ)
(明治になって、かつての武士階級は華族(徳川宗家、大名)、士族(旗本、各藩の藩士)、卒族(足軽)に編成された)
諭吉の父は、諭吉が数え年(かぞえどし.生まれたときを1歳と数える歳(とし)の数え方)3歳で病死しました.母と兄、姉3人と諭吉の子供5人は、九州の東部・中津(なかつ)に戻ります.
「私共の兄弟は、中津人は俗物(ぞくぶつ.平凡は人間たち)であると思って、バカにしていた(軽蔑していた)ようなものです」
諭吉の証言(福翁自伝)によれば、諭吉は、四・五歳のころから、普通の人をバカにしていたのです.その諭吉は、後に「天皇と宗教」を利用して、国民をだまして戦争(日清・日露戦争、朝鮮・台湾の植民地化、対中国侵略戦争から太平洋戦争)に引き込む重要な役割を果たしました.
一方では、諭吉は戦争を後押しする形で報道・論評することで「時事新報」の発行部数をのばして、大もうけをしました.
諭吉は、お金のことを重視していただけかも知れませんが、彼の「時事新報」の宣伝が一定の役割をはたし、日本で300万人、アジアで2000万人、全世界で数千万人の犠牲を出した第2次世界大戦の基礎となったのです.
そして、2007年現在、諭吉は一万円札の肖像の形で、「お金の神様」として、日本人1億2千万人の上に立っています.
アジアの人たちの諭吉に対する理解と、日本人の諭吉に対する理解の違いは、日本の戦争責任の理解の違いでもあります.(安川寿之助「福沢諭吉のアジア認識」高文研発行 2000年)
「諭吉」の歴史的な意味を正しく理解したときに、はじめて日本人は国際社会の中で対等な立場に立つことができるでしょう.
それまでは、司馬遼太郎が「坂の上の雲」で正しく表現したように、日本は「まことに小さな」島が集まった「国」でしかないでしょう.
国土の大きさは、民族の大きさとは違います.
日本の本州の約半分、人口では10分の1以下の国キューバは、軍事・経済大国アメリカから数十年独立を維持していて、2007年の現在、女子バレーで日本と対等以上の戦いをするだけではなく、中南米諸国の尊敬を集めています.
同じ例は、ベトナムでも見られます.
これらの流れは、21世紀にラテンアメリカなど、世界中にに引き継がれ、世界史をリードしはじめています.
それに対して、日本はスポーツの国際試合でいくつかの金メダルを取ることはあっても、「アメリカのポチ」でありつづけています.
また、日本による侵略戦争と結びついた「日の丸」(福沢諭吉も「日章旗」といって、宣伝につとめていた)を「歴史の自覚のない選手たち」が「国旗」として「スポーツの成果」と結びつけつづけています.
これでは、アジアの中、国際社会の中で、日本が理解と共感を得ることはなかなか難しいことでしょう.
2007年11月10日土曜日
神様にお願いしないと解決できないと考える(アメリカ)
ワシントンから記者が伝えています.
米ジョージア州:深刻な水不足…知事が雨ごい計画
米南部ジョージア州で深刻な水不足が続いており、州知事は宗教家を招いて雨ごいをする礼拝式の開催を計画していると地元紙が報じた.
知事は州議会議事堂に各宗教の指導者を招き、降雨のため祈りをささげる.
州広報担当者は「政府に雨を降らせることはできない.より高い存在に要請をする必要がある」と語ったという.ラジオ局は「神に祈るのが究極の解決策だ」との州知事の発言を報じている.
(毎日新聞 2007年11月9日)
福沢諭吉は、すでに1881年につぎのようにいっています.
「馬鹿(バカ)と片輪(カタワ)に宗教、丁度(ちょうど)よき取合せ」(「宗教の説」全集第20巻).
諭吉によれば、この州知事がバカなのか、それとも州知事が州民をバカにしているのか、どちらなのでしょう? いずれにしても、政治に宗教を持ち込むことは誤りです.
日本にも同じ問題があります.
諭吉が推進した「天皇と宗教を利用して、国民をだまして侵略戦争を進める方式」で、諭吉の新聞「時事新報」は発行部数を大幅に拡大し、諭吉は大もうけをしました.
しかし、その方式は、日本で300万人、アジアで2000万人、世界で数千万人以上の犠牲を出した第2次世界大戦へとつながって行きました.
戦争の反省として、日本では「戦争をしない」「戦力をもたない」憲法がつくられました.
そしてその憲法のもとで「全力をあげて、国連の理想と目的の達成に貢献する」という宣誓をした後に日本は国連加盟を認められました(1956年)
憲法9条は、日本の国際公約であり、国連の理想と目的を達成する前に、憲法9条を変えることは許されません.サンフランシスコ平和条約の前文にも同様の規定があります.条約締結国は、日本が国際社会の理解なく国際公約を守らなかった場合には、国際司法裁判所に提訴することができ、日本もそれに同意しています(日本との平和条約 第22条).
日本の戦争への反省が真実のものだと国際社会から認められていないのは、日本の政策が国際社会と平和への貢献よりも、アメリカの戦争政策への協力を重視していることによります.
1974年に福沢諭吉が一万円札の肖像として採用され、それが新デザインでもつづいていますが、戦後与党・政府は、米国の要求ししたがって警察予備隊(1950年)・保安隊(1952年)・自衛隊(1954年)、防衛庁(1954年)・防衛省(2007年)、テロ特措法、イラク特措法と憲法の軽視・無視をつづけています.
政府・与党の憲法軽視・無視の継続は、「憲法改正」をめざしながら、年金・税金の無駄遣い・私物化と平行して国民生活に大きな矛盾としてのしかかり、2007年末現在「ねじれ国会」として政治の変革が始まろうとしています.
この流れの中で、日本の宗教政党は与党に身を寄せ、「利権」と「戦争」、すなわち「お金が一番」の政策への協力をすすめています.
これらの流れは、いかにお金の神様が10000円札で肖像としてがんばろうとも、歴史のゴミ箱に流れ込む流れであることが、ますますあきらかになりつつあります.
米ジョージア州:深刻な水不足…知事が雨ごい計画
米南部ジョージア州で深刻な水不足が続いており、州知事は宗教家を招いて雨ごいをする礼拝式の開催を計画していると地元紙が報じた.
知事は州議会議事堂に各宗教の指導者を招き、降雨のため祈りをささげる.
州広報担当者は「政府に雨を降らせることはできない.より高い存在に要請をする必要がある」と語ったという.ラジオ局は「神に祈るのが究極の解決策だ」との州知事の発言を報じている.
(毎日新聞 2007年11月9日)
福沢諭吉は、すでに1881年につぎのようにいっています.
「馬鹿(バカ)と片輪(カタワ)に宗教、丁度(ちょうど)よき取合せ」(「宗教の説」全集第20巻).
諭吉によれば、この州知事がバカなのか、それとも州知事が州民をバカにしているのか、どちらなのでしょう? いずれにしても、政治に宗教を持ち込むことは誤りです.
日本にも同じ問題があります.
諭吉が推進した「天皇と宗教を利用して、国民をだまして侵略戦争を進める方式」で、諭吉の新聞「時事新報」は発行部数を大幅に拡大し、諭吉は大もうけをしました.
しかし、その方式は、日本で300万人、アジアで2000万人、世界で数千万人以上の犠牲を出した第2次世界大戦へとつながって行きました.
戦争の反省として、日本では「戦争をしない」「戦力をもたない」憲法がつくられました.
そしてその憲法のもとで「全力をあげて、国連の理想と目的の達成に貢献する」という宣誓をした後に日本は国連加盟を認められました(1956年)
憲法9条は、日本の国際公約であり、国連の理想と目的を達成する前に、憲法9条を変えることは許されません.サンフランシスコ平和条約の前文にも同様の規定があります.条約締結国は、日本が国際社会の理解なく国際公約を守らなかった場合には、国際司法裁判所に提訴することができ、日本もそれに同意しています(日本との平和条約 第22条).
日本の戦争への反省が真実のものだと国際社会から認められていないのは、日本の政策が国際社会と平和への貢献よりも、アメリカの戦争政策への協力を重視していることによります.
1974年に福沢諭吉が一万円札の肖像として採用され、それが新デザインでもつづいていますが、戦後与党・政府は、米国の要求ししたがって警察予備隊(1950年)・保安隊(1952年)・自衛隊(1954年)、防衛庁(1954年)・防衛省(2007年)、テロ特措法、イラク特措法と憲法の軽視・無視をつづけています.
政府・与党の憲法軽視・無視の継続は、「憲法改正」をめざしながら、年金・税金の無駄遣い・私物化と平行して国民生活に大きな矛盾としてのしかかり、2007年末現在「ねじれ国会」として政治の変革が始まろうとしています.
この流れの中で、日本の宗教政党は与党に身を寄せ、「利権」と「戦争」、すなわち「お金が一番」の政策への協力をすすめています.
これらの流れは、いかにお金の神様が10000円札で肖像としてがんばろうとも、歴史のゴミ箱に流れ込む流れであることが、ますますあきらかになりつつあります.
「集団自殺」と福沢諭吉
沖縄戦の「集団自殺」で、旧日本軍の命令を否定する元軍人らが、軍関与を指摘した大江健三郎氏の著書『沖縄ノート』などで名誉を傷つけられたとし、同氏と出版元を訴えた裁判がありました.
大江氏は、「(軍の縦の構造の中で)命令はあったと考えていると証言.原告の元隊長が「沖縄ノート」を読まずに提訴したことも明らかになりました.(以上しんぶん赤旗 2007年11月10日)
旧日本軍は、アジア侵略戦争の中でおこなった数々の戦争犯罪を隠してきました.
731部隊の中国人を対象とした人体実験については、撤退にあたりその証拠を徹底的に消滅させました.しかし、そのデータを米軍に売ることによって、戦争犯罪追求をまぬがれ、その流れがミドリ十字により、薬害エイズ、C型肝炎などの薬害を引き起こし、それを時の政府に働きかけ、長年犯罪的な行為を続けていました.
このような例を考えると、その反省なく「軍の強制は、なかった」などという主張は、まじめなものとは考えられません.
犠牲者、国民、歴史に対する日本政府の責任は、大きいと思います.
大江氏は、「(軍の縦の構造の中で)命令はあったと考えていると証言.原告の元隊長が「沖縄ノート」を読まずに提訴したことも明らかになりました.(以上しんぶん赤旗 2007年11月10日)
旧日本軍は、アジア侵略戦争の中でおこなった数々の戦争犯罪を隠してきました.
731部隊の中国人を対象とした人体実験については、撤退にあたりその証拠を徹底的に消滅させました.しかし、そのデータを米軍に売ることによって、戦争犯罪追求をまぬがれ、その流れがミドリ十字により、薬害エイズ、C型肝炎などの薬害を引き起こし、それを時の政府に働きかけ、長年犯罪的な行為を続けていました.
このような例を考えると、その反省なく「軍の強制は、なかった」などという主張は、まじめなものとは考えられません.
犠牲者、国民、歴史に対する日本政府の責任は、大きいと思います.
2007年11月8日木曜日
「天皇陛下バンザイ」 と 福沢諭吉
「『天皇陛下バンザイ』といって死んだのだから、天皇がヤスクニ神社を参拝するのは当然だ」という人がいます.
お金の神様・福沢諭吉も同じ内容のことをいっていました.
日清戦争(1984-1985)のときです.
「財産を擲(なげう)つはもちろん、老少(ろうしょう.老人も子供も)の別なく切死(きりじに)して、人の種の尽(つ)きるまでも戦うの覚悟」が必要である.(1884年「日本臣民の覚悟」福沢諭吉全集 第14巻)
この考え方の基礎には、「学問のすすめ」(1872-1876)があります.
「国のためには財を失うのみならず、一命をもなげうちて惜(お)しむに足ら」(ないと考えることが必要である)
「学問のすすめ」は、「最終的には300万人以上売れたとされ、時の日本の人口が3000万人程であったから実に10人に1人が読んだことになる」(ウィキペディア)
この思想が「日清戦争」「日露戦争」「太平洋戦争にいたるアジア侵略戦争」を準備し、2007年の今なお10000円札の肖像としてほとんどの人が目にする宣伝がなされています.
諭吉は、創刊・発行した新聞「時事新報」でその思想を展開し、同時に「戦争のニュース」で発行部数をのばし、「金」を手にいれました.「諭吉は『お金の神様』」という表現は正確であるというべきです.
この「お金の神様」は、国民をだまして戦争に押しやり、その過程で「金」を手に入れるために、天皇と宗教を利用しました.
諭吉は、「天皇は『愚民(バカな国民)を篭絡するの(だますための)一欺術(ひとつのサギ的な手段』」という考え方があるといっています(1884年「帝室論」全集第5巻).
この「帝室論」は、東宮教育係を務めた小泉信三が皇太子(現在の天皇)の教育のために使用したものです.(小泉信三 『ジョオジ五世伝と帝室論』 文藝春秋、1989年)
諭吉は、また「馬鹿(バカ)と片輪(カタワ)に宗教、丁度(ちょうど)よき取合せ」ともいっています(1881年「宗教の説」全集第20巻).
この「宗教の説」は、ちょうどヤスクニ神社ができたころ(1881年)のものです.
「国や天皇のために財産を出し、命を捨てること」が必要であり、そのために戦死した者はヤスクニ神社に祭られるので、安心して死になさい.その間にわたしはお「金」をもうけるよ.
まさに、「お金の神様」としてふさわしい考え方です.
お金の神様・福沢諭吉も同じ内容のことをいっていました.
日清戦争(1984-1985)のときです.
「財産を擲(なげう)つはもちろん、老少(ろうしょう.老人も子供も)の別なく切死(きりじに)して、人の種の尽(つ)きるまでも戦うの覚悟」が必要である.(1884年「日本臣民の覚悟」福沢諭吉全集 第14巻)
この考え方の基礎には、「学問のすすめ」(1872-1876)があります.
「国のためには財を失うのみならず、一命をもなげうちて惜(お)しむに足ら」(ないと考えることが必要である)
「学問のすすめ」は、「最終的には300万人以上売れたとされ、時の日本の人口が3000万人程であったから実に10人に1人が読んだことになる」(ウィキペディア)
この思想が「日清戦争」「日露戦争」「太平洋戦争にいたるアジア侵略戦争」を準備し、2007年の今なお10000円札の肖像としてほとんどの人が目にする宣伝がなされています.
諭吉は、創刊・発行した新聞「時事新報」でその思想を展開し、同時に「戦争のニュース」で発行部数をのばし、「金」を手にいれました.「諭吉は『お金の神様』」という表現は正確であるというべきです.
この「お金の神様」は、国民をだまして戦争に押しやり、その過程で「金」を手に入れるために、天皇と宗教を利用しました.
諭吉は、「天皇は『愚民(バカな国民)を篭絡するの(だますための)一欺術(ひとつのサギ的な手段』」という考え方があるといっています(1884年「帝室論」全集第5巻).
この「帝室論」は、東宮教育係を務めた小泉信三が皇太子(現在の天皇)の教育のために使用したものです.(小泉信三 『ジョオジ五世伝と帝室論』 文藝春秋、1989年)
諭吉は、また「馬鹿(バカ)と片輪(カタワ)に宗教、丁度(ちょうど)よき取合せ」ともいっています(1881年「宗教の説」全集第20巻).
この「宗教の説」は、ちょうどヤスクニ神社ができたころ(1881年)のものです.
「国や天皇のために財産を出し、命を捨てること」が必要であり、そのために戦死した者はヤスクニ神社に祭られるので、安心して死になさい.その間にわたしはお「金」をもうけるよ.
まさに、「お金の神様」としてふさわしい考え方です.
つぎの世代に、平和と地球環境を残す
「つぎの世代に、平和と地球環境を残すこと」
これに、だれが反対できるだろうか?
だれも反対することはできない.
しかし、それよりも「お金が大事」と考えれば、そのことを忘れてしまう.
福沢諭吉は、お金の神様として2007年の現在でも、1万円札の肖像になっている.
彼は、下級武士の次男としての将来をあきらめ、「学問で身をたてる」ことにした.
オランダ語を習い、ついで英語を習って、西洋の思想と文化を紹介した.
しかし、植民地主義・帝国主義を取り入れ、日本を戦争の道に進める役割を果たした.
彼は、「時事新報という報道機関」と「慶応義塾という教育機関」を活用して、
天皇制と宗教(靖国神社)を利用したアジア侵略の道を思想的に支えたのである.
彼は、日清戦争と日露戦争を正当化して、太平洋戦争への道を準備した.「天皇は、バカな国民をだます手段」(1882年「帝室論」福沢諭吉全集題5巻271㌻)として、天皇を利用していた.
靖国神社ができたころ、「バカとカタワと宗教は、ちょうどよい組み合わせだ」ともいっている.
(「馬鹿と片輪に宗教、丁度よき取合せならん」(1881年「宗教の説」福沢諭吉全集題20巻232㌻).内村鑑三は「福沢がみずから宗教を信ぜずして宗教を奨励したのは、宗教に対する最大の侮辱」(「宗教の大敵」)と糾弾していますが、諭吉は宗教を国民だましの手段として理解し、権力者たちに利用させていたのです)
彼は、人民を支配する手段を知っていたのだ.
その上で、侵略戦争に協力し、自分のために「金」を保証した.
戦争協力の道をとることで、時の権力から保護され、
利権を得る道を選んだのだ.
彼は、「お金を神様」とすることで、「つぎの世代に、平和と地球環境を残す」ことを投げ捨てた.その信奉者は、いまもまだ力をもっている.
雇い主が石油・軍事産業資本である米国のブッシュ大統領も同じ信奉者である.
位(くらい)が下のそのポチたち、その先輩や後輩たちも、同じ仲間である.
彼らは、歴史のゴミ箱に片足を入れながら、まだ生きている.
しかし、彼らの希望には無関係に歴史は動いて行く...
これに、だれが反対できるだろうか?
だれも反対することはできない.
しかし、それよりも「お金が大事」と考えれば、そのことを忘れてしまう.
福沢諭吉は、お金の神様として2007年の現在でも、1万円札の肖像になっている.
彼は、下級武士の次男としての将来をあきらめ、「学問で身をたてる」ことにした.
オランダ語を習い、ついで英語を習って、西洋の思想と文化を紹介した.
しかし、植民地主義・帝国主義を取り入れ、日本を戦争の道に進める役割を果たした.
彼は、「時事新報という報道機関」と「慶応義塾という教育機関」を活用して、
天皇制と宗教(靖国神社)を利用したアジア侵略の道を思想的に支えたのである.
彼は、日清戦争と日露戦争を正当化して、太平洋戦争への道を準備した.「天皇は、バカな国民をだます手段」(1882年「帝室論」福沢諭吉全集題5巻271㌻)として、天皇を利用していた.
靖国神社ができたころ、「バカとカタワと宗教は、ちょうどよい組み合わせだ」ともいっている.
(「馬鹿と片輪に宗教、丁度よき取合せならん」(1881年「宗教の説」福沢諭吉全集題20巻232㌻).内村鑑三は「福沢がみずから宗教を信ぜずして宗教を奨励したのは、宗教に対する最大の侮辱」(「宗教の大敵」)と糾弾していますが、諭吉は宗教を国民だましの手段として理解し、権力者たちに利用させていたのです)
彼は、人民を支配する手段を知っていたのだ.
その上で、侵略戦争に協力し、自分のために「金」を保証した.
戦争協力の道をとることで、時の権力から保護され、
利権を得る道を選んだのだ.
彼は、「お金を神様」とすることで、「つぎの世代に、平和と地球環境を残す」ことを投げ捨てた.その信奉者は、いまもまだ力をもっている.
雇い主が石油・軍事産業資本である米国のブッシュ大統領も同じ信奉者である.
位(くらい)が下のそのポチたち、その先輩や後輩たちも、同じ仲間である.
彼らは、歴史のゴミ箱に片足を入れながら、まだ生きている.
しかし、彼らの希望には無関係に歴史は動いて行く...
2007年11月7日水曜日
韓国と小林多喜二
「戦争と文学 いま小林多喜二を読む」の著者は、自書の韓国での訳書出版に際し、韓国で講演をしました.そのとき、ハングル版の「蟹(かに)工船」を古書店で見つけます.
それには、「党生活者」の困難な運動を描いた部分や強い決意をしめした部分にアンダーラインがほどこされていました.
この著者は、「蟹工船」がこのよう訳され、このように読まれていることに感動したと書いています(伊豆利彦横浜市立大学名誉教授 しんぶん赤旗で)
多喜二の死後、韓国の民主化運動の過程で、小林多喜二の小説が読まれていたのです.
真実と未来を見据える作品、それこそ真の芸術作品だと思いますが、そのような作品は時と場所を超えて、人々を勇気付ける力をもっているものだということをあらためて感じます.
それには、「党生活者」の困難な運動を描いた部分や強い決意をしめした部分にアンダーラインがほどこされていました.
この著者は、「蟹工船」がこのよう訳され、このように読まれていることに感動したと書いています(伊豆利彦横浜市立大学名誉教授 しんぶん赤旗で)
多喜二の死後、韓国の民主化運動の過程で、小林多喜二の小説が読まれていたのです.
真実と未来を見据える作品、それこそ真の芸術作品だと思いますが、そのような作品は時と場所を超えて、人々を勇気付ける力をもっているものだということをあらためて感じます.
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