「外に敵を作ることが、内を治めることにつながる」との内容を福沢諭吉は主張しています.さらに、「外に敵を作ることが、『お金もうけ』につながる」ことも、実践しています.(いずれも、文献上の根拠を別途確認することが必要)
同じことを、アメリカの石油資本・軍事産業はブッシュを通じて実践しています.
その後を無批判について行くのが「アメリカのポチ」です.
2007年には、アフガニスタンやイラクの「敵」もアメリカ国民に対する説得力を失いはじめて、国民の過半数と民主党が戦争に反対するようになっています.
それでは、どこの「外」に「敵」を求めるのか?
それは、「宇宙」のようです.
次のようなニュースがありました.
米元州知事、本気で要請「ufo調べろ」
日刊スポーツ - 18時間前
米メディアは13日、米空軍の元パイロットらが米政府に対し、ufo(未確認飛行物体)の調査を再開するよう要請したと伝えた。米政府はこれまで「ufo=異星人説」を否定。公式調査は約40年前に終了し、その後行われていなかった。先月、民主党のクシニッチ大統領候補(61) ...
「ufoを調べて!」米政府に元空軍パイロットらがお願い サンケイスポーツ
2007/11/13-21:35 米政府にufo調査再開を要求=笑い事でないと元パイロットら 時事通信
2007年11月16日金曜日
2007年11月15日木曜日
稲荷(いなり)様の社(やしろ)を開けて見る!
諭吉が、神様の名のある御札(おふだ)をトイレで踏んだとき(十二、三歳のころ)から「一つも二つも年をとれば、年寄りなどの『神罰(しんばつ.神があたえるばつ)』などということは、大ウソだと信じ切って、今度は一つ稲荷様(いなりさま)を見てやろうという野心を起こし」おじの家の稲荷の社(やしろ)を開けてみます.
そして石を発見したので、その石を捨て、別の石を入れておきます.
「また、隣の下村という屋敷の稲荷様を開けてみれば、神体は何か木の札(ふだ)で、これもとって捨ててしまい、平気な顔していると、まもなく初午(はつうま)になって、のぼりを立てたり、太鼓(たいこ)をたたいたり、お神酒(おみき)を上げてワイワイしているから、私はおかしい.『馬鹿め、オレの入れておいた石にお神酒を上げて拝んでいるとは面白い』」(「福翁自伝」)
諭吉が、十三、四のころのことです.
そして石を発見したので、その石を捨て、別の石を入れておきます.
「また、隣の下村という屋敷の稲荷様を開けてみれば、神体は何か木の札(ふだ)で、これもとって捨ててしまい、平気な顔していると、まもなく初午(はつうま)になって、のぼりを立てたり、太鼓(たいこ)をたたいたり、お神酒(おみき)を上げてワイワイしているから、私はおかしい.『馬鹿め、オレの入れておいた石にお神酒を上げて拝んでいるとは面白い』」(「福翁自伝」)
諭吉が、十三、四のころのことです.
神様のお札(おふだ)をトイレで踏んでみる
諭吉が十二、三歳のころのことです(「福翁自伝」).
兄が古い紙をそろえているとき、諭吉がそれを足で踏んでしまいます.
兄は、「殿様(とのさま)の名前の書いてある紙だ.踏むとは何だ」とおこります.
諭吉は「まことに悪うございましたから、かんにんしてください」とあやまりますが、不満です.
殿様の名前を書いてある古い紙を踏んで悪いのなら、「神様の名のある御札(おふだ)を踏んだらどうだろうと思って、人の見ぬところで踏んでみたがなんともない」
「コリャ面白い、今度はトイレでやってやろう」と少しこわかったが、トイレで御札を踏んでみたが「なんともない」
(この一、二年後、諭吉は「稲荷(いなり)様の社(やしろ)を開けて見る!」ことをおこない、石を発見します)
この後、諭吉は「神様は、拝むものではなく、利用するものだ」ということを知るのです.
諭吉が「馬鹿と片輪に宗教、丁度よき取り合わせ」(「宗教の説」福沢諭吉全集第20巻)といったのは、1881年ごろ.ちょうどヤスクニ神社ができたころでした.
(戦争で死ねば、ヤスクニ神社にまつられるよ.
空をつくよな 大鳥居、こんな立派な おやしろに、母は泣けます うれしさに...美空ひばりが7歳のとき、父の入隊にあたって歌った「九段の母」です.そのときには、「日の丸」も振られていたはずです)
諭吉は、「国のために、財産と命を提供する」ことをすすめて、戦争を応援し、戦争のニュースを自分の新聞「時事新報」で大いに売って、発行部数をのばし、大もうけをし、本当に「金持ち」になったのです.(お金の神様は、やっぱりスゴイ!)
兄が古い紙をそろえているとき、諭吉がそれを足で踏んでしまいます.
兄は、「殿様(とのさま)の名前の書いてある紙だ.踏むとは何だ」とおこります.
諭吉は「まことに悪うございましたから、かんにんしてください」とあやまりますが、不満です.
殿様の名前を書いてある古い紙を踏んで悪いのなら、「神様の名のある御札(おふだ)を踏んだらどうだろうと思って、人の見ぬところで踏んでみたがなんともない」
「コリャ面白い、今度はトイレでやってやろう」と少しこわかったが、トイレで御札を踏んでみたが「なんともない」
(この一、二年後、諭吉は「稲荷(いなり)様の社(やしろ)を開けて見る!」ことをおこない、石を発見します)
この後、諭吉は「神様は、拝むものではなく、利用するものだ」ということを知るのです.
諭吉が「馬鹿と片輪に宗教、丁度よき取り合わせ」(「宗教の説」福沢諭吉全集第20巻)といったのは、1881年ごろ.ちょうどヤスクニ神社ができたころでした.
(戦争で死ねば、ヤスクニ神社にまつられるよ.
空をつくよな 大鳥居、こんな立派な おやしろに、母は泣けます うれしさに...美空ひばりが7歳のとき、父の入隊にあたって歌った「九段の母」です.そのときには、「日の丸」も振られていたはずです)
諭吉は、「国のために、財産と命を提供する」ことをすすめて、戦争を応援し、戦争のニュースを自分の新聞「時事新報」で大いに売って、発行部数をのばし、大もうけをし、本当に「金持ち」になったのです.(お金の神様は、やっぱりスゴイ!)
「明治維新最大の思想家」
諭吉は、「明治維新最大の思想家」と信じている人がいます.
「学問のすすめ」(注)で、「『天は人の上に人を造(つく)らず、人の下に人を造らず』と言えり」と書いて、アメリカ独立宣言やフランス革命の「平等」の考え方を紹介したと理解されているからでしょうか?
注:
1872年(明治5年2月)初編出版。以降、1876年(明治9年11月25日)十七編出版を以って一応の完成をみた。その後1880年(明治13年)に「合本學問之勸序」という前書きを加え、一冊の本に合本された。その前書きによると初出版以来8年間で合計約70万冊が売れたとの事である。最終的には300万部以上売れたとされ、当時の日本の人口が3000万人程であったから実に10人に1人が読んだことになる(Wikipedia)
諭吉自身は、身分に上下のある封建性をきらい、故郷大分県中津を飛び出したのでしたが、成功して「金持ち」になったあとは、社会には身分の上下があることは当たり前と考えていました.
66歳のとき、「福翁自伝」でこう書いています.
(諭吉の母は)「少し変わっていたようです」「下等社会の者に付き合うことがすきで、出入りの百姓、町人は無論、えたでも乞食(こじき)でも、さっさと近づけて、軽蔑もしなければが嫌(いや)がりもせず、言葉など至極(しごく.とても)丁寧(ていねい)でした」
「母は少し変わっていたが、自分は普通だっだ」のです.
(「この人は、『学問のすすめ』を読んだことがあるのだろうか?」と考える人もあるかも知れません)
「学問のすすめ」(注)で、「『天は人の上に人を造(つく)らず、人の下に人を造らず』と言えり」と書いて、アメリカ独立宣言やフランス革命の「平等」の考え方を紹介したと理解されているからでしょうか?
注:
1872年(明治5年2月)初編出版。以降、1876年(明治9年11月25日)十七編出版を以って一応の完成をみた。その後1880年(明治13年)に「合本學問之勸序」という前書きを加え、一冊の本に合本された。その前書きによると初出版以来8年間で合計約70万冊が売れたとの事である。最終的には300万部以上売れたとされ、当時の日本の人口が3000万人程であったから実に10人に1人が読んだことになる(Wikipedia)
諭吉自身は、身分に上下のある封建性をきらい、故郷大分県中津を飛び出したのでしたが、成功して「金持ち」になったあとは、社会には身分の上下があることは当たり前と考えていました.
66歳のとき、「福翁自伝」でこう書いています.
(諭吉の母は)「少し変わっていたようです」「下等社会の者に付き合うことがすきで、出入りの百姓、町人は無論、えたでも乞食(こじき)でも、さっさと近づけて、軽蔑もしなければが嫌(いや)がりもせず、言葉など至極(しごく.とても)丁寧(ていねい)でした」
「母は少し変わっていたが、自分は普通だっだ」のです.
(「この人は、『学問のすすめ』を読んだことがあるのだろうか?」と考える人もあるかも知れません)
「何になるつもりか?」「日本一の大金持ちだ」(諭吉)
「福翁自伝」にあります.
これは、私の十六、七のころと思います.
兄が「お前はこれから先、何になるつもりか?」というから、「左様さ(さようさ.そうですね)、まず日本一の大金持ちになって思うさま金を使うてみようと思います」という.
(「福翁自伝」は、諭吉が63歳のとき口述して、1898-1899年に「時事新報」に連載されました)
「僕の夢は、一流のプロ野球選手になることです」(「僕の夢」小学校6年のイチローの作文)
諭吉の夢も、諭吉の努力により、実現されました.
封建的な枠組みをきらい、故郷を飛び出して、オランダ語・英語を習い、教育事業(慶応義塾の創設)と言論分野(新聞「時事新報」の発行)で成功し、「天皇制」と「宗教」を利用して、国民を戦争(日清・日露・対中国侵略戦争)に追いやり、戦争ニュースの報道で時事新報の発行部数を大いにのばして、大もうけをしたのです.
その思想は、太平洋戦争の遂行を支え、戦後も戦争責任の回避をつづける歴代政府の守護神となり、2007年の現在も最高額紙幣(10000円札)の肖像として、日本国民の上に君臨しています.
これは、私の十六、七のころと思います.
兄が「お前はこれから先、何になるつもりか?」というから、「左様さ(さようさ.そうですね)、まず日本一の大金持ちになって思うさま金を使うてみようと思います」という.
(「福翁自伝」は、諭吉が63歳のとき口述して、1898-1899年に「時事新報」に連載されました)
「僕の夢は、一流のプロ野球選手になることです」(「僕の夢」小学校6年のイチローの作文)
諭吉の夢も、諭吉の努力により、実現されました.
封建的な枠組みをきらい、故郷を飛び出して、オランダ語・英語を習い、教育事業(慶応義塾の創設)と言論分野(新聞「時事新報」の発行)で成功し、「天皇制」と「宗教」を利用して、国民を戦争(日清・日露・対中国侵略戦争)に追いやり、戦争ニュースの報道で時事新報の発行部数を大いにのばして、大もうけをしたのです.
その思想は、太平洋戦争の遂行を支え、戦後も戦争責任の回避をつづける歴代政府の守護神となり、2007年の現在も最高額紙幣(10000円札)の肖像として、日本国民の上に君臨しています.
2007年11月14日水曜日
先祖代々、足軽は足軽. 諭吉は封建時代をどう見ていたか?
何百年たっても、一寸(チョイト)も動かぬ.
先祖代々、足軽は足軽.
「福翁(ふくおう.福沢のおじいさん)自伝」によると、諭吉は、1835年に大阪に生まれました.父は中津藩の士族.中津は、九州福岡市の東.父が、大阪にある中津藩の蔵屋敷に勤めていたので、5人の子供はすべて「大阪で生まれたのです」
「総領(長男)の兄の次に女の子が3人、私は末っ子(すえっこ)」「数え(かぞえ)年で三つ」のとき、父が病死.「兄弟残らず母に連れられて藩地の中津に帰りました」
「私共兄弟5人は、どうしても中津人と一緒に混加(こんか.いっしょに参加)することができない」「中津の人が『そうじゃちこ』というところを、私共は『そうでおます』なんというような訳で、お互いにおかしいから、まず話ができない」
「私が少年のときから、木に登ることが不得手(ふえて.不得意)で、水を泳ぐことも皆無できぬというのも、とかく同藩中の子弟と打ち解けて遊ぶことができずに孤立したせいでしょう」
「中津は封建制度で、何百年たっても、足軽の子は足軽、何年たっても変化というものがない」
下級士族の次男であった諭吉は、将来の可能性がないということから、封建制度には批判的な理解をしていました.そこには、諭吉の未来に対する積極性が見られます.
しかし、結果として諭吉がとったのは、「天皇(注1)と宗教(注2)を利用して、国民をだまし、アジアの隣人から生命・財産・領土を奪う『大ニッポン帝国』の戦争の道でした.2007年現在、その功績がたたえられ、一万円札の肖像となり、「お金の神様」となっています.(しかし、その「お金」も紙くずとなるときが近づいているのを、この神様は知っているのでしょうか?)
注1:諭吉は「天皇は、『愚民を篭絡(ろうらく.だますこと)するの一欺術(ひとつのダマシの手段)』(188年「帝室論」福沢諭吉全集第5巻)という考え方があるが、政治の実情からすれば、そういって笑うのはよくない」といっています.
現在の天皇が皇太子であったとき、その教育係であった小泉信三は、この「帝室論」によって、皇太子を教育していました(小泉信三「ジョオジ五世伝と帝室論」1989年 文芸春秋社刊)
注2:諭吉は「馬鹿(バカ)と片輪(かたわ)に宗教、丁度よき取り合わせ」(1881年「宗教の説」全集第20巻)といっています.ヤスクニ神社ができたころでした.
諭吉は、この考え方をもちながら、「天皇と国のために命と財産をささげる」ことを国民に呼びかけ、それにより戦争(日清・日露・対中侵略戦争)を励まし、戦争のニュースの報道で発行した「時事新報」の部数を大いにのばし、大もうけしたのです.まさに、「お金の神様」というべきです.
しかし、封建制を批判していた諭吉が、このような人間になったのは、お金のせいでしょうか? それとも、司馬遼太郎が「坂の上の雲」で表現したように、日本が島々が集まった「まことに小さな国」であり、諭吉もその限界内の人間であったということなのでしょうか?
先祖代々、足軽は足軽.
「福翁(ふくおう.福沢のおじいさん)自伝」によると、諭吉は、1835年に大阪に生まれました.父は中津藩の士族.中津は、九州福岡市の東.父が、大阪にある中津藩の蔵屋敷に勤めていたので、5人の子供はすべて「大阪で生まれたのです」
「総領(長男)の兄の次に女の子が3人、私は末っ子(すえっこ)」「数え(かぞえ)年で三つ」のとき、父が病死.「兄弟残らず母に連れられて藩地の中津に帰りました」
「私共兄弟5人は、どうしても中津人と一緒に混加(こんか.いっしょに参加)することができない」「中津の人が『そうじゃちこ』というところを、私共は『そうでおます』なんというような訳で、お互いにおかしいから、まず話ができない」
「私が少年のときから、木に登ることが不得手(ふえて.不得意)で、水を泳ぐことも皆無できぬというのも、とかく同藩中の子弟と打ち解けて遊ぶことができずに孤立したせいでしょう」
「中津は封建制度で、何百年たっても、足軽の子は足軽、何年たっても変化というものがない」
下級士族の次男であった諭吉は、将来の可能性がないということから、封建制度には批判的な理解をしていました.そこには、諭吉の未来に対する積極性が見られます.
しかし、結果として諭吉がとったのは、「天皇(注1)と宗教(注2)を利用して、国民をだまし、アジアの隣人から生命・財産・領土を奪う『大ニッポン帝国』の戦争の道でした.2007年現在、その功績がたたえられ、一万円札の肖像となり、「お金の神様」となっています.(しかし、その「お金」も紙くずとなるときが近づいているのを、この神様は知っているのでしょうか?)
注1:諭吉は「天皇は、『愚民を篭絡(ろうらく.だますこと)するの一欺術(ひとつのダマシの手段)』(188年「帝室論」福沢諭吉全集第5巻)という考え方があるが、政治の実情からすれば、そういって笑うのはよくない」といっています.
現在の天皇が皇太子であったとき、その教育係であった小泉信三は、この「帝室論」によって、皇太子を教育していました(小泉信三「ジョオジ五世伝と帝室論」1989年 文芸春秋社刊)
注2:諭吉は「馬鹿(バカ)と片輪(かたわ)に宗教、丁度よき取り合わせ」(1881年「宗教の説」全集第20巻)といっています.ヤスクニ神社ができたころでした.
諭吉は、この考え方をもちながら、「天皇と国のために命と財産をささげる」ことを国民に呼びかけ、それにより戦争(日清・日露・対中侵略戦争)を励まし、戦争のニュースの報道で発行した「時事新報」の部数を大いにのばし、大もうけしたのです.まさに、「お金の神様」というべきです.
しかし、封建制を批判していた諭吉が、このような人間になったのは、お金のせいでしょうか? それとも、司馬遼太郎が「坂の上の雲」で表現したように、日本が島々が集まった「まことに小さな国」であり、諭吉もその限界内の人間であったということなのでしょうか?
2007年11月13日火曜日
「学問のすすめ」とソロバン
一万円札の肖像となっている「お金の神様」福沢諭吉は、「福翁自伝」の中でこういっています.
「蔵屋敷(注)の中に手習いの師匠(ししょう.先生)があって、十歳ばかりになる兄と七、八歳になる姉などが手習い(文字を覚える勉強)をする.大阪のことだから、イロハニホヘトも教えるが、九九を教える.二二が四、二三が六.そのことを父が聞いて、「けしからぬ.子供に勘定(かんじょう.お金の計算のこと)を教えるのは、もってのほか」といって、取り返した(子供をひきもどした)」
(注)
蔵屋敷(くらやしき):江戸時代に大名(藩)が年貢米(ねんぐまい)などを販売するために設置した大阪などの倉庫・邸宅のこと.
士族(しぞく):「福沢諭吉の父は、豊前(ぶぜん.福岡市の東部)の士族で、福沢百助(ひゃくすけ).身分は、やっと藩主(江戸時代に1万石以上の領土を保有する封建領主である大名)の前に顔を出すことのできる程度.大阪にある藩主の蔵屋敷に勤務していた」(学問のすすめ)
(明治になって、かつての武士階級は華族(徳川宗家、大名)、士族(旗本、各藩の藩士)、卒族(足軽)に編成された)
諭吉の父は、諭吉が数え年(かぞえどし.生まれたときを1歳と数える歳(とし)の数え方)3歳で病死しました.母と兄、姉3人と諭吉の子供5人は、九州の東部・中津(なかつ)に戻ります.
「私共の兄弟は、中津人は俗物(ぞくぶつ.平凡は人間たち)であると思って、バカにしていた(軽蔑していた)ようなものです」
諭吉の証言(福翁自伝)によれば、諭吉は、四・五歳のころから、普通の人をバカにしていたのです.その諭吉は、後に「天皇と宗教」を利用して、国民をだまして戦争(日清・日露戦争、朝鮮・台湾の植民地化、対中国侵略戦争から太平洋戦争)に引き込む重要な役割を果たしました.
一方では、諭吉は戦争を後押しする形で報道・論評することで「時事新報」の発行部数をのばして、大もうけをしました.
諭吉は、お金のことを重視していただけかも知れませんが、彼の「時事新報」の宣伝が一定の役割をはたし、日本で300万人、アジアで2000万人、全世界で数千万人の犠牲を出した第2次世界大戦の基礎となったのです.
そして、2007年現在、諭吉は一万円札の肖像の形で、「お金の神様」として、日本人1億2千万人の上に立っています.
アジアの人たちの諭吉に対する理解と、日本人の諭吉に対する理解の違いは、日本の戦争責任の理解の違いでもあります.(安川寿之助「福沢諭吉のアジア認識」高文研発行 2000年)
「諭吉」の歴史的な意味を正しく理解したときに、はじめて日本人は国際社会の中で対等な立場に立つことができるでしょう.
それまでは、司馬遼太郎が「坂の上の雲」で正しく表現したように、日本は「まことに小さな」島が集まった「国」でしかないでしょう.
国土の大きさは、民族の大きさとは違います.
日本の本州の約半分、人口では10分の1以下の国キューバは、軍事・経済大国アメリカから数十年独立を維持していて、2007年の現在、女子バレーで日本と対等以上の戦いをするだけではなく、中南米諸国の尊敬を集めています.
同じ例は、ベトナムでも見られます.
これらの流れは、21世紀にラテンアメリカなど、世界中にに引き継がれ、世界史をリードしはじめています.
それに対して、日本はスポーツの国際試合でいくつかの金メダルを取ることはあっても、「アメリカのポチ」でありつづけています.
また、日本による侵略戦争と結びついた「日の丸」(福沢諭吉も「日章旗」といって、宣伝につとめていた)を「歴史の自覚のない選手たち」が「国旗」として「スポーツの成果」と結びつけつづけています.
これでは、アジアの中、国際社会の中で、日本が理解と共感を得ることはなかなか難しいことでしょう.
「蔵屋敷(注)の中に手習いの師匠(ししょう.先生)があって、十歳ばかりになる兄と七、八歳になる姉などが手習い(文字を覚える勉強)をする.大阪のことだから、イロハニホヘトも教えるが、九九を教える.二二が四、二三が六.そのことを父が聞いて、「けしからぬ.子供に勘定(かんじょう.お金の計算のこと)を教えるのは、もってのほか」といって、取り返した(子供をひきもどした)」
(注)
蔵屋敷(くらやしき):江戸時代に大名(藩)が年貢米(ねんぐまい)などを販売するために設置した大阪などの倉庫・邸宅のこと.
士族(しぞく):「福沢諭吉の父は、豊前(ぶぜん.福岡市の東部)の士族で、福沢百助(ひゃくすけ).身分は、やっと藩主(江戸時代に1万石以上の領土を保有する封建領主である大名)の前に顔を出すことのできる程度.大阪にある藩主の蔵屋敷に勤務していた」(学問のすすめ)
(明治になって、かつての武士階級は華族(徳川宗家、大名)、士族(旗本、各藩の藩士)、卒族(足軽)に編成された)
諭吉の父は、諭吉が数え年(かぞえどし.生まれたときを1歳と数える歳(とし)の数え方)3歳で病死しました.母と兄、姉3人と諭吉の子供5人は、九州の東部・中津(なかつ)に戻ります.
「私共の兄弟は、中津人は俗物(ぞくぶつ.平凡は人間たち)であると思って、バカにしていた(軽蔑していた)ようなものです」
諭吉の証言(福翁自伝)によれば、諭吉は、四・五歳のころから、普通の人をバカにしていたのです.その諭吉は、後に「天皇と宗教」を利用して、国民をだまして戦争(日清・日露戦争、朝鮮・台湾の植民地化、対中国侵略戦争から太平洋戦争)に引き込む重要な役割を果たしました.
一方では、諭吉は戦争を後押しする形で報道・論評することで「時事新報」の発行部数をのばして、大もうけをしました.
諭吉は、お金のことを重視していただけかも知れませんが、彼の「時事新報」の宣伝が一定の役割をはたし、日本で300万人、アジアで2000万人、全世界で数千万人の犠牲を出した第2次世界大戦の基礎となったのです.
そして、2007年現在、諭吉は一万円札の肖像の形で、「お金の神様」として、日本人1億2千万人の上に立っています.
アジアの人たちの諭吉に対する理解と、日本人の諭吉に対する理解の違いは、日本の戦争責任の理解の違いでもあります.(安川寿之助「福沢諭吉のアジア認識」高文研発行 2000年)
「諭吉」の歴史的な意味を正しく理解したときに、はじめて日本人は国際社会の中で対等な立場に立つことができるでしょう.
それまでは、司馬遼太郎が「坂の上の雲」で正しく表現したように、日本は「まことに小さな」島が集まった「国」でしかないでしょう.
国土の大きさは、民族の大きさとは違います.
日本の本州の約半分、人口では10分の1以下の国キューバは、軍事・経済大国アメリカから数十年独立を維持していて、2007年の現在、女子バレーで日本と対等以上の戦いをするだけではなく、中南米諸国の尊敬を集めています.
同じ例は、ベトナムでも見られます.
これらの流れは、21世紀にラテンアメリカなど、世界中にに引き継がれ、世界史をリードしはじめています.
それに対して、日本はスポーツの国際試合でいくつかの金メダルを取ることはあっても、「アメリカのポチ」でありつづけています.
また、日本による侵略戦争と結びついた「日の丸」(福沢諭吉も「日章旗」といって、宣伝につとめていた)を「歴史の自覚のない選手たち」が「国旗」として「スポーツの成果」と結びつけつづけています.
これでは、アジアの中、国際社会の中で、日本が理解と共感を得ることはなかなか難しいことでしょう.
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