諭吉が十二、三歳のころのことです(「福翁自伝」).
兄が古い紙をそろえているとき、諭吉がそれを足で踏んでしまいます.
兄は、「殿様(とのさま)の名前の書いてある紙だ.踏むとは何だ」とおこります.
諭吉は「まことに悪うございましたから、かんにんしてください」とあやまりますが、不満です.
殿様の名前を書いてある古い紙を踏んで悪いのなら、「神様の名のある御札(おふだ)を踏んだらどうだろうと思って、人の見ぬところで踏んでみたがなんともない」
「コリャ面白い、今度はトイレでやってやろう」と少しこわかったが、トイレで御札を踏んでみたが「なんともない」
(この一、二年後、諭吉は「稲荷(いなり)様の社(やしろ)を開けて見る!」ことをおこない、石を発見します)
この後、諭吉は「神様は、拝むものではなく、利用するものだ」ということを知るのです.
諭吉が「馬鹿と片輪に宗教、丁度よき取り合わせ」(「宗教の説」福沢諭吉全集第20巻)といったのは、1881年ごろ.ちょうどヤスクニ神社ができたころでした.
(戦争で死ねば、ヤスクニ神社にまつられるよ.
空をつくよな 大鳥居、こんな立派な おやしろに、母は泣けます うれしさに...美空ひばりが7歳のとき、父の入隊にあたって歌った「九段の母」です.そのときには、「日の丸」も振られていたはずです)
諭吉は、「国のために、財産と命を提供する」ことをすすめて、戦争を応援し、戦争のニュースを自分の新聞「時事新報」で大いに売って、発行部数をのばし、大もうけをし、本当に「金持ち」になったのです.(お金の神様は、やっぱりスゴイ!)
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