一万円札の肖像となっている「お金の神様」福沢諭吉は、「福翁自伝」の中でこういっています.
「蔵屋敷(注)の中に手習いの師匠(ししょう.先生)があって、十歳ばかりになる兄と七、八歳になる姉などが手習い(文字を覚える勉強)をする.大阪のことだから、イロハニホヘトも教えるが、九九を教える.二二が四、二三が六.そのことを父が聞いて、「けしからぬ.子供に勘定(かんじょう.お金の計算のこと)を教えるのは、もってのほか」といって、取り返した(子供をひきもどした)」
(注)
蔵屋敷(くらやしき):江戸時代に大名(藩)が年貢米(ねんぐまい)などを販売するために設置した大阪などの倉庫・邸宅のこと.
士族(しぞく):「福沢諭吉の父は、豊前(ぶぜん.福岡市の東部)の士族で、福沢百助(ひゃくすけ).身分は、やっと藩主(江戸時代に1万石以上の領土を保有する封建領主である大名)の前に顔を出すことのできる程度.大阪にある藩主の蔵屋敷に勤務していた」(学問のすすめ)
(明治になって、かつての武士階級は華族(徳川宗家、大名)、士族(旗本、各藩の藩士)、卒族(足軽)に編成された)
諭吉の父は、諭吉が数え年(かぞえどし.生まれたときを1歳と数える歳(とし)の数え方)3歳で病死しました.母と兄、姉3人と諭吉の子供5人は、九州の東部・中津(なかつ)に戻ります.
「私共の兄弟は、中津人は俗物(ぞくぶつ.平凡は人間たち)であると思って、バカにしていた(軽蔑していた)ようなものです」
諭吉の証言(福翁自伝)によれば、諭吉は、四・五歳のころから、普通の人をバカにしていたのです.その諭吉は、後に「天皇と宗教」を利用して、国民をだまして戦争(日清・日露戦争、朝鮮・台湾の植民地化、対中国侵略戦争から太平洋戦争)に引き込む重要な役割を果たしました.
一方では、諭吉は戦争を後押しする形で報道・論評することで「時事新報」の発行部数をのばして、大もうけをしました.
諭吉は、お金のことを重視していただけかも知れませんが、彼の「時事新報」の宣伝が一定の役割をはたし、日本で300万人、アジアで2000万人、全世界で数千万人の犠牲を出した第2次世界大戦の基礎となったのです.
そして、2007年現在、諭吉は一万円札の肖像の形で、「お金の神様」として、日本人1億2千万人の上に立っています.
アジアの人たちの諭吉に対する理解と、日本人の諭吉に対する理解の違いは、日本の戦争責任の理解の違いでもあります.(安川寿之助「福沢諭吉のアジア認識」高文研発行 2000年)
「諭吉」の歴史的な意味を正しく理解したときに、はじめて日本人は国際社会の中で対等な立場に立つことができるでしょう.
それまでは、司馬遼太郎が「坂の上の雲」で正しく表現したように、日本は「まことに小さな」島が集まった「国」でしかないでしょう.
国土の大きさは、民族の大きさとは違います.
日本の本州の約半分、人口では10分の1以下の国キューバは、軍事・経済大国アメリカから数十年独立を維持していて、2007年の現在、女子バレーで日本と対等以上の戦いをするだけではなく、中南米諸国の尊敬を集めています.
同じ例は、ベトナムでも見られます.
これらの流れは、21世紀にラテンアメリカなど、世界中にに引き継がれ、世界史をリードしはじめています.
それに対して、日本はスポーツの国際試合でいくつかの金メダルを取ることはあっても、「アメリカのポチ」でありつづけています.
また、日本による侵略戦争と結びついた「日の丸」(福沢諭吉も「日章旗」といって、宣伝につとめていた)を「歴史の自覚のない選手たち」が「国旗」として「スポーツの成果」と結びつけつづけています.
これでは、アジアの中、国際社会の中で、日本が理解と共感を得ることはなかなか難しいことでしょう.