2007年11月22日木曜日

「福沢諭吉全集」 と 平山洋 (7)

韓国の盧大統領と日本の福田首相の会談について、asahi.com は以下のように伝えています.

盧大統領、最後まで歴史問題 福田首相へは期待感

2007年11月21日23時59分

 残り任期3カ月の盧武鉉(ノ・ムヒョン)・韓国大統領が、東南アジア諸国連合(ASEAN)会合で訪問したシンガポールで事実上最後の首脳外交に臨んだ。歴史問題で終始ぎくしゃくした日本の福田首相とも20日に初会談。未来志向を掲げたが、歴史にこだわる大統領の視線は変わらなかった。

 「懸案が争点にならないよう管理し、問題が起きたら広がらぬよう努力することが大事だ」。首脳会談で大統領は任期中の日韓関係を振り返り、歴史認識や教科書問題に触れた。だが、直言をぶつけ、険悪になった過去に比べて、ソフトな雰囲気。アジア重視を掲げる福田首相への期待感と、来月選ばれる次期大統領への配慮が働いた。

 だが歴史観は変わっておらず、21日出した任期中の首脳外交総括は「過去の歴史の克服は日本の正しい歴史認識が前提との信念で断固対処した」とした。

日本には、平山洋氏のように、創作の形ではあれ、諭吉を登場させて歴史の書き換えるなどの試みが絶えない中、韓国の大統領がねばり強く日本に正しく歴史と向き合うことを要求する姿は、外国人ではあっても、非常に好感が持てます.

しかし、そうはとらない日本人も多いかと思います.その人たちは北朝鮮による日本人拉致被害者たちのことをどう考えているのでしょうか?

日本が過去に同じような犯罪をおかし、それにほほかぶりをしながら、「あなた方のやっていることは主権の侵害だ.犯罪だ」などといって、だれが納得するでしょうか?

正しい解決は、「私たちは間違っていた.あなた方も間違っている.これからは、お互いに決して間違えを犯さないようにしよう」という以外に解決ができないことは明らかだと思います.

諭吉は、自分は「暗に政府のお師匠だっだ」と認めていますが(小泉信三)、台湾・朝鮮の植民地化から中国への侵略戦争に積極的に貢献し、出来事をニュースとして伝える中で「時事新報」の発行部数をのばし、お金をもうけました.この点で、諭吉が「間違いを犯しても、お金が大切」という見本を残したことは、正当に批判されるべきです.

同時にその諭吉を擁護する立場、しかもウソをついてまで擁護する立場も、しょせんは「お金のため」であり、非難されるべきです.

「福沢諭吉全集」 と 平山洋 (6)

「自国の歴史をいつわる」国は、国際社会での尊敬と理解をえることはできません.
日本は過去に、朝鮮李王朝の王妃閔妃(ミンピまたはビンピ)を惨殺し(19世紀後半)、朝鮮を植民地化しました.

労働力を補うために、多くの労働者を強制的に日本に移動させ、苛酷な労働をさせました.太平洋戦争では、女性を日本軍に付属する「女性奴隷」(従軍慰安婦)として強制的に拉致し、人間以下の扱いをしました.関東大震災では、市民が朝鮮人を探し出し、6000人とも言われる朝鮮人をなぐり殺しました.騒動をおこして社会主義者の弾圧に利用しようとした、政府側の陰謀だともいわれています.日本人との区別をするために、「君が代」を歌わせることもあったそうです.(その「君が代」を国歌とするとはどういう神経でしょうか?)

従軍慰安婦の問題では、米国(下院)やオランダ(下院)の国会に相当する機関で謝罪要求の決議がなされています.これに対する日本の態度は、教科書からその事実を削除し、国民の記憶から抹殺しようとする、ネットには「... 『日帝は国母のミンピを惨殺し、民衆の希望を奪った」www。これも笑える。当時は民衆に恨まれてたんだよ!? 』という書き込みがある、など自分で国際社会から尊敬を受けられないのが当然であるような行為をつづける、異常な状態がつづいています.

この態度のもとには、諭吉がいます.諭吉は「国民と政府の師匠」として、「内政に問題があれば、外に問題をおこし、注意をそらすこと」を提案し、朝鮮で農民運動が農民戦争へと進んだ1893年には「居留人民保護」のための出兵要請、事件を「王宮の城門破壊・武力占領・国王の軟禁・かいらい化」に発展させ、「人民の保護ではなく、文明進歩のため」に駐留を継続させるなど、日本の侵略戦争を推し進め、一方では、そのニュース報道で「時事新報」の発行部数をのばし、お金をもうけました.(藤村道生「日清戦争」、安川寿之輔「福沢諭吉のアジア認識」など)

この諭吉の活動を、「実は石河幹明のしわざ」というのは、「お話」としては面白いというようなことではなく、過去の日本の戦争を「自衛のための正しい戦争」と宣伝することにつながる、歴史の書き換えであり、「大ウソ」というより、国民と国際社会に対するサギ、あるいは強盗の居直りのようなものだというべきです.

「福沢諭吉全集」 と 平山洋 (5)

「福沢諭吉の真実」の著者平山洋は、以下の論旨を立てている.

① 諭吉批判者は、無署名論文を諭吉の思想として批判している.
② しかし、無署名論文の多くは、弟子の石河幹明が書いて、意図的に「全集」にまぎれこませた(と考える)ものなので、諭吉批判は成立しない.

これが、結果として「娯楽性の高いミステリー」となった「福沢諭吉の真実」の筋書きである.これは厳格な検討は話をかたくしすぎて、娯楽性をそこなうと考え、実体から離れた仮定を前提として話を進めたという作者のサービス精神によるものと考えられる.

以下がその例の一つである.

① 平山の話の前提は、諭吉執筆か石河執筆かの判定にあたり、両者の用語の違いを基準の一つとする.諭吉は「臣民」の用語を用いず、石河はそれを用いる.この基準で、諭吉の「尊王論」(88年10月刊)には、それ以前の(諭吉の)文章では使用が確認できない「臣民」が使われている.また、「天下万民」「日本人固有の性」という表現から、「尊王論」の真の起草者は石河幹明であることが判明した.(「福沢諭吉の真実」83ページ)

② しかし、諭吉は「尊王論」の刊行前の「徳教之説」(1883年)で、「臣民」「日本臣民」の表現を使い始め、以来10年余にわたり「臣民」の用語を使いつづけている.(安川寿之輔「福沢諭吉の戦争論と天皇制論」2006年 高文研刊 17ページ)

このように、「福沢諭吉の真実」の作者は、話を面白くするために事実とは離れた一定の仮定を立て、それにもとづいて物語をすすめている.

それが、作者の娯楽性の秘密である.

「福沢諭吉全集」 と 平山洋 (4)

「『時事新報論集』には『恐るべき言動』が含まれている」「中国人を『チャンチャン』呼ばわりした多くの「漫言」やら、日清戦争後に植民地となった台湾で蜂起した現地人を皆殺しにせよ、と主張する「台湾の騒動」(96.1.8)などの論説がある」

「私の考えでは、・・・『時事新報論集』はその大部分が無署名であり、大正版『福沢全集』(1925~26)と昭和版『続福沢全集』の編纂者であった弟子の石河幹明が・・・選んだものを、そのまま引き継いで収録しているに過ぎない.現行版『全集』(1958~64)の第16巻には福沢の没後数ヵ月してから掲載された論説が6編収められているのであるが、これらを本人(諭吉)がかけたはずがないのは言うまでもないであろう」(「福沢諭吉の真実」まえがき)

平山洋は、「福沢諭吉の真実」でこのように書いている.

「『時事新報論説』の大部分は無署名であり、6編は諭吉の死後の論説が収められている」(ので「時事新報論説」のすべてが諭吉が書いたものではない).平山が「まえがき」で主張しているのは、「諭吉の『批判者たち』は、諭吉が書いたものではない論説を含む「時事新報論説」をもとに諭吉の批判をしている」というものである.

この主張は、「死後に出された論説は、本人の書いたものではない」という普通のミステリー小説並の推理と、名作のミステリー並の表現、すなわち「『本人の死後出された論説は、本人の思想ではない』すなわち、『本人の思想とは大きくことなった他人の思想である』」と正確に書くことを避け、読者に同じ結論を出させる間接表現により、直接の「ウソ」を避けた方法による表現である. 

おそらく、平山は「福沢諭吉の真実」を書くにあたり、「厳格な検討をおこなうと、あまり研究者的でかたくなりすぎ、娯楽性をそこなう」という考えで、「諭吉の思想」と「時事新報論説の思想」の比較を軽くあつかい、「読者にわかりやすいこと」を重視したのであろう.

その結果、「福沢諭吉の真実」は、レベルの高いミステリーとして楽しむことができる読み物となっている.

「福沢諭吉全集」 と 平山洋 (3)

「福沢諭吉全集 全1巻」の半数近くの自作による石河幹明の偽作を見破った名探偵平山洋が、「犯人石河」の論説執筆期間について、「1885年~1922年」と「1887年~1922年」とを「勘違い」で間違えるはずがない.

それでは、間違いの原因は何であったのだろうか?

「福沢諭吉の真実」の著者よりは、とぼしい推理力で推理した結果は以下のとおりであった.

① 著者は、「諭吉の評価」がプラスとマイナスの2種類にわかれているとしている.

② 著者は、「時事新報論集」の「論説はもっぱら福沢批判者が、彼をおとしめる材料を探すために読んできたといってよい」(同書10ページ)と書いている.すなわち、諭吉に対する「批判」は諭吉を「おとしめる」ものであるとの「考え」あるいは「信念」をもっている.

③ この「考え」あるいは「信念」は、著者の「考え」を「諭吉への批判を批判する」方向へみちびく作用をおよぼす.

④ 石河は、福沢先生が時事新報創刊以来その紙上に執筆せられたる論説は約5000件あるべし」と書いている(同書68ページ).名探偵の推理は、5000というのは誤りで、実は石河が書いたものが大部分ということであるから、それをもっともらしく説明する必要がある.

⑤ そこで、「石河は『時事新報』在職の期間、せっせと論説を書いていたはず」と考え、つい「石河の在職期間」を紹介するときに、その間「毎日」論説を書いていたといってしまった.しかし、これは「文字どおりの毎日」ではなく、「文学的な強調表現としての『毎日』」である.

すなわち、「福沢諭吉の真実」の著者は、「研究者」ではなく、「文学者」としての能力を発揮したのである.そう理解すれば、この問題も理解できるし、この著書が娯楽物として楽しめるものになっていることも理解できる.

「福沢諭吉全集」 と 平山洋 (2)

平山洋(静岡県立大学国際関係学部助教授)は、その著「福沢諭吉の真実」(2002年 文芸春秋社刊)において、見事な推理で「『福沢諭吉全集前21巻』のうち諭吉の著作は約半数であり」、第8巻から第16巻までの9巻は、諭吉の弟子である石河幹明が「自分で執筆した論説を大量に、『福沢全集』の『時事論集』に採録し」、「それをもとに『福沢諭吉伝』第3巻を著したのであった」と大胆に結論している.

しかし、その「見事な推理」と「大胆な結論」が正しいかどうかの判断には、客観的な検討が必要である.

平山は、その著書「福沢諭吉の真実」の中で、石河幹明は「自分で執筆した論説を大量に、『福沢全集』の『時事論集』に採録し」たが、石河が「論説」をいつ書いたかについて、以下の2つの時期をあげている.

① 石河は、1885年4月から1922年5月までの間「毎日南鍋町の新聞社に出勤し、論説を書き続けていた」(同書147ページ)

② 「石河が『時事新報』で論説を担当していた」のは「1887年から1922年まで」(同書149ページ)

ここには、推理の根拠の不一致が見られる.「名探偵」は、これを見落としたのだろうか?