2007年11月8日木曜日

「天皇陛下バンザイ」 と 福沢諭吉

「『天皇陛下バンザイ』といって死んだのだから、天皇がヤスクニ神社を参拝するのは当然だ」という人がいます.

お金の神様・福沢諭吉も同じ内容のことをいっていました.

日清戦争(1984-1985)のときです.
「財産を擲(なげう)つはもちろん、老少(ろうしょう.老人も子供も)の別なく切死(きりじに)して、人の種の尽(つ)きるまでも戦うの覚悟」が必要である.(1884年「日本臣民の覚悟」福沢諭吉全集 第14巻)

この考え方の基礎には、「学問のすすめ」(1872-1876)があります.
「国のためには財を失うのみならず、一命をもなげうちて惜(お)しむに足ら」(ないと考えることが必要である)

「学問のすすめ」は、「最終的には300万人以上売れたとされ、時の日本の人口が3000万人程であったから実に10人に1人が読んだことになる」(ウィキペディア)

この思想が「日清戦争」「日露戦争」「太平洋戦争にいたるアジア侵略戦争」を準備し、2007年の今なお10000円札の肖像としてほとんどの人が目にする宣伝がなされています.

諭吉は、創刊・発行した新聞「時事新報」でその思想を展開し、同時に「戦争のニュース」で発行部数をのばし、「金」を手にいれました.「諭吉は『お金の神様』」という表現は正確であるというべきです.

この「お金の神様」は、国民をだまして戦争に押しやり、その過程で「金」を手に入れるために、天皇と宗教を利用しました.

諭吉は、「天皇は『愚民(バカな国民)を篭絡するの(だますための)一欺術(ひとつのサギ的な手段』」という考え方があるといっています(1884年「帝室論」全集第5巻).

この「帝室論」は、東宮教育係を務めた小泉信三が皇太子(現在の天皇)の教育のために使用したものです.(小泉信三 『ジョオジ五世伝と帝室論』 文藝春秋、1989年)

諭吉は、また「馬鹿(バカ)と片輪(カタワ)に宗教、丁度(ちょうど)よき取合せ」ともいっています(1881年「宗教の説」全集第20巻).

この「宗教の説」は、ちょうどヤスクニ神社ができたころ(1881年)のものです.

「国や天皇のために財産を出し、命を捨てること」が必要であり、そのために戦死した者はヤスクニ神社に祭られるので、安心して死になさい.その間にわたしはお「金」をもうけるよ.

まさに、「お金の神様」としてふさわしい考え方です.

つぎの世代に、平和と地球環境を残す

「つぎの世代に、平和と地球環境を残すこと」
これに、だれが反対できるだろうか?

だれも反対することはできない.
しかし、それよりも「お金が大事」と考えれば、そのことを忘れてしまう.

福沢諭吉は、お金の神様として2007年の現在でも、1万円札の肖像になっている.
彼は、下級武士の次男としての将来をあきらめ、「学問で身をたてる」ことにした.

オランダ語を習い、ついで英語を習って、西洋の思想と文化を紹介した.
しかし、植民地主義・帝国主義を取り入れ、日本を戦争の道に進める役割を果たした.

彼は、「時事新報という報道機関」と「慶応義塾という教育機関」を活用して、
天皇制と宗教(靖国神社)を利用したアジア侵略の道を思想的に支えたのである.

彼は、日清戦争と日露戦争を正当化して、太平洋戦争への道を準備した.「天皇は、バカな国民をだます手段」(1882年「帝室論」福沢諭吉全集題5巻271㌻)として、天皇を利用していた.

靖国神社ができたころ、「バカとカタワと宗教は、ちょうどよい組み合わせだ」ともいっている.

(「馬鹿と片輪に宗教、丁度よき取合せならん」(1881年「宗教の説」福沢諭吉全集題20巻232㌻).内村鑑三は「福沢がみずから宗教を信ぜずして宗教を奨励したのは、宗教に対する最大の侮辱」(「宗教の大敵」)と糾弾していますが、諭吉は宗教を国民だましの手段として理解し、権力者たちに利用させていたのです)

彼は、人民を支配する手段を知っていたのだ.
その上で、侵略戦争に協力し、自分のために「金」を保証した.

戦争協力の道をとることで、時の権力から保護され、
利権を得る道を選んだのだ.

彼は、「お金を神様」とすることで、「つぎの世代に、平和と地球環境を残す」ことを投げ捨てた.その信奉者は、いまもまだ力をもっている.

雇い主が石油・軍事産業資本である米国のブッシュ大統領も同じ信奉者である.
位(くらい)が下のそのポチたち、その先輩や後輩たちも、同じ仲間である.

彼らは、歴史のゴミ箱に片足を入れながら、まだ生きている.
しかし、彼らの希望には無関係に歴史は動いて行く...