福沢諭吉は、「学問のすすめ」で、「『天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず』と言えり」といったので、「諭吉は、『人間は平等である』ことを主張し、教育した」と考えている人が多いようです.
しかし、諭吉は64歳になって「福翁自伝」で、子供のころから(故郷の)地方の人たちを軽蔑していたことを証言しています.大阪とは話し方が違うので「中津人は俗物であると思って」「目下にこれを見下して」いたとのことです.「まるで歯牙(しが)にもかけずに、いわば人を馬鹿にしていたようなものです」
そこで、親戚や近所の子供たちとも遊ばなかったので、「木にのぼること」もへたで、「泳ぐこと」もできなかったそうです.
また、母親が「下等社会の者に付き合うこと」や「えたでも乞食(こじき)でも近づけ」「軽蔑もしなければ忌(いや)がりもせず、言葉なども至極(しごく.とても)丁寧(ていねい)」だったことを、「変わっていた」と批判的にのべています.
「人の上に人をつくらない」のなら、「天皇は選挙で選ぶ」「天皇は、国民の間で順番制にする」「天皇は抽選で決める」といったのかと思えば、そうではなかったと考える人もいるかもしれません.
諭吉は、それよりももっとりこうだったのです.「天皇は、バカな国民をだますための一つの手段だ」という考えもある(1882年「帝室論」福沢諭吉全集第5巻)といって、「天皇と国のために財産と命を提供する」ことを教育・宣伝し、国民を朝鮮・台湾の植民地化、アジア侵略の戦争に追い込み、戦争の報道で自分の新聞「時事新報」の発行部数をのばし、大もうけをしたのです.
その亜流は、2007年の現在も最高額の10000円札に諭吉を肖像として掲げ、「憲法改正」「自衛隊海外派兵」などを叫んでいます.彼らもそれなりに「金をもうけている」のです.(それを支払っているのは、ミルク代から消費税を払っている赤ちゃんまでをも含む国民です)
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